2016年06月15日
2016年6月12日 日曜礼拝 説教要約
2016年6月12日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「仮庵の祭に出現するイエス【3】」
聖書箇所:ヨハネの福音書7章37節~52節
説教者:菅野直基牧師
少し前に、イエスはガリラヤ湖の湖畔で5000人の給食の奇跡を行いました。そのことがきっかけで、群衆の中に「イエスを王にしよう!」という動きが起こりました。イエスは一人山に退きました。弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出しますが、嵐に巻き込まれました。そこに、山に居たはずのイエスがガリラヤ湖にワープするかのようにして現われ、窮地を救われました。舟にイエスが乗った途端、嵐は静まり、まもなくカペナウムに到着しました。翌日、カペナウムの会堂で、イエスは「いのちのパンの説教」を語りました。その説教を聞いた群集のほとんどがイエスから離れ、弟子の多くもイエスから離れて行きました。その後、「仮庵の祭り」の時期になったので、イエスはエルサレムに向かいました。今日は、その「仮庵の祭に出現するイエス」の最終回。メッセージの締めくくりです。
1、イエスの招き (37節~44節)
(1)37節・・・『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。』
①仮庵の祭中の生活
仮庵の祭りは毎年秋に行われます。昔イスラエルの民が出エジプトし、荒野の旅をした時に主が守って下さり、無事に約束の地に入れたことを記念してお祝いします。この期間、木の枝で作った小屋で過ごし、荒野の天幕生活を思い出します。
②仮庵の祭りの儀式
仮庵の祭りは7日間行われ、8日目の安息日には聖なる会合を開きました。
祭りの最初の6日間は、行列になってギホンの泉から水を汲み、神殿の祭壇を1度回ってから水を注ぎます。7日目は、同じように行列になってギホンの泉から水を汲みますが、最後、祭壇の周りを7度回ってから水を注ぎます。
③立って、大声で語る
「水を注ぐ」儀式は、水のない荒野で、主が水を与えて下さったことを思い起こすためですが、8日目の聖なる会合を開く日に、イエスは水の話をされました。通常、ユダヤのラビは座って教えるのが慣例ですが、イエスは立って、しかも、大声で語りました。これは驚くべき光景だったに違いありません。
(2)37~38節・・・『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』
①すべての人を招くイエス
「誰でも」という言葉によって、すべての人を招かれました。そこに例外はありません。「わたしのもとに来て飲みなさい。」とは、
「信じなさい」という意味です。信じるなら、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」というのです。
②生ける水
イスラエルでは、通常、「生ける水」とは動いている水を指しますが、物質的な水ではなく、「御霊(聖霊)」を指しました。
③渇き
人は、「霊」「魂」「体」の3つの部分から成り立っています。これは「父」「子」「聖霊」の神が三位一体のように、切っても切り離せません。最初の人アダムは、神によって土地のちりで形造られ、その鼻に息を吹き込まれると生きた存在になりました。人は、「霊」が「魂」を支配し、「魂」が「体」を支配していました。この状態は、「霊」である神が中心なので、「魂」は健全で、肉の欲も健全でした。永遠に生きる存在でしたが、罪を犯した時、「霊」が離れて、「霊」の部分が死に、「魂」と「体」だけになりました。人は死ぬべき存在になりました。イエスが立って大声で叫ばれた「渇き」は、「霊」に対する渇きです。
③心の奥底
「心の奥底」は、かつて「霊」が存在していた場所です。イスラエルには、水なし川が数多くあります。乾季には水のない枯れた川
ですが、雨季になると鉄砲水が流れて来ます。イエスを信じるなら、枯れた心の奥底に「聖霊が鉄砲水のように流れる」というのです。
(3)39節・・・『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』
「栄光を受ける」とは?
十字架、復活、昇天を指します。昇天したイエスが10日後に120人の弟子たちの上に聖霊を注がれました。ペンテコステの日
に「栄光を受ける」預言が成就し、教会が誕生しました。これが、先日教会でお祝いしたペンテコステであり、教会が誕生した日です。
(4)40~43節・・・『このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。』
★イエスの評価に関して分裂が起こった
①「あの預言者」(=モーセのような預言者)・・・『申命記18:15参照』
②キリスト(=メシア)
③ガリラヤ出身なのでキリストではない
キリストはダビデの子孫であり、ベツレヘムで生まれると預言されているので、「キリストはガリラヤで生まれない」というのは正しいが、この人々は、イエスが「ベツレヘム」で誕生したことを知らなかった。
(5)44節・・・『その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。』
イエスが十字架につけられる時は来ていなかった。神の御心を歩むなら、働きが完成するまで神が守って下さる。
2、パリサイ人の反応 (45節~52節)
(1)45~46節・・・『それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連
れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
①手ぶらで帰ってきた役人たち
祭司長とパリサイ人たちは、役人たちに「イエスを逮捕して連れて来るように」と命じていたのに手ぶらで帰って来たため詰問した。
②役人たちはイエスの話に感動した
役人たちは、これまでも高名なラビたちの講話を何度も聞いていたが、イエスの教えはそのどれとも違っていて感動した。
(2)47~49節・・・『すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」』
①無知ゆえ惑わされている
パリサイ人は役人に、「あなたがたは無知ゆえ惑わされている。のろわれている」と言い放ったが、惑わされているのはどちらか?
②イエスを信じる議員や指導者たちはいた
パリサイ人たちは、まさかイエスを信じている議員がいるはずはないと思っていましたが、ユダヤの国会議員(サンヘドリン)の「ニコデモ」や「アリマタヤのヨセフ」はイエスを信じていたし、他にも、『指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。』(ヨハネ12:42)と書かれています。
(3)50節~52節・・・『彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」』
①隠れ信者のニコデモが提言
ニコデモはパリサイ人たちに、「モーセの律法に基づいて、相手の言い分を聞いてから判決を下すべきだ」と提言した。
②「ガリラヤから預言者は起こらない」は間違い
「ホセア」「ヨナ」「エリシャ」などの預言者はガリラヤ出身であった。パリサイ人たちは知ったかぶっているが案外無知であった。
結論
1、招きの対象・・・「誰でも」
(1)すべての人が救いに招かれている。
(2)滅びに定められている人はいない。
(3)しかし、すべての人がイエスのもとに来るわけではない。
2、救いの前提・・・「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」
(1)霊的に渇いている人だけがイエスのもとに来る。
(2)「水を飲む」とは、イエスを信じてイエスで心を満たすことである。
3、信じた者への約束・・・「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(1)霊的渇きとは神に対する渇きであり、神への渇きが完全にいやされる。
(2)霊的に生まれ変わる。
(3)聖霊に満たされ力を受ける
(4)聖霊に導かれるようになる。
4、救われた者に起こること
(1)聖霊が中心部から外側に向かって流れるようになる。
(2)聖霊の流れは人を三重の意味で生かす。①幸せにし、②祝福し、③健康にする。(第三ヨハネ1:2参照)
(3)聖霊の流れは人と環境に影響を与える。
(4)聖霊の流れは、自覚しなくても信じた瞬間から始まっている。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書7章37節~52節」
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
7:40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
7:41 またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
7:42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
7:43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
7:44 その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
7:45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
7:48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
説教題:「仮庵の祭に出現するイエス【3】」
聖書箇所:ヨハネの福音書7章37節~52節
説教者:菅野直基牧師
少し前に、イエスはガリラヤ湖の湖畔で5000人の給食の奇跡を行いました。そのことがきっかけで、群衆の中に「イエスを王にしよう!」という動きが起こりました。イエスは一人山に退きました。弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出しますが、嵐に巻き込まれました。そこに、山に居たはずのイエスがガリラヤ湖にワープするかのようにして現われ、窮地を救われました。舟にイエスが乗った途端、嵐は静まり、まもなくカペナウムに到着しました。翌日、カペナウムの会堂で、イエスは「いのちのパンの説教」を語りました。その説教を聞いた群集のほとんどがイエスから離れ、弟子の多くもイエスから離れて行きました。その後、「仮庵の祭り」の時期になったので、イエスはエルサレムに向かいました。今日は、その「仮庵の祭に出現するイエス」の最終回。メッセージの締めくくりです。
1、イエスの招き (37節~44節)
(1)37節・・・『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。』
①仮庵の祭中の生活
仮庵の祭りは毎年秋に行われます。昔イスラエルの民が出エジプトし、荒野の旅をした時に主が守って下さり、無事に約束の地に入れたことを記念してお祝いします。この期間、木の枝で作った小屋で過ごし、荒野の天幕生活を思い出します。
②仮庵の祭りの儀式
仮庵の祭りは7日間行われ、8日目の安息日には聖なる会合を開きました。
祭りの最初の6日間は、行列になってギホンの泉から水を汲み、神殿の祭壇を1度回ってから水を注ぎます。7日目は、同じように行列になってギホンの泉から水を汲みますが、最後、祭壇の周りを7度回ってから水を注ぎます。
③立って、大声で語る
「水を注ぐ」儀式は、水のない荒野で、主が水を与えて下さったことを思い起こすためですが、8日目の聖なる会合を開く日に、イエスは水の話をされました。通常、ユダヤのラビは座って教えるのが慣例ですが、イエスは立って、しかも、大声で語りました。これは驚くべき光景だったに違いありません。
(2)37~38節・・・『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』
①すべての人を招くイエス
「誰でも」という言葉によって、すべての人を招かれました。そこに例外はありません。「わたしのもとに来て飲みなさい。」とは、
「信じなさい」という意味です。信じるなら、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」というのです。
②生ける水
イスラエルでは、通常、「生ける水」とは動いている水を指しますが、物質的な水ではなく、「御霊(聖霊)」を指しました。
③渇き
人は、「霊」「魂」「体」の3つの部分から成り立っています。これは「父」「子」「聖霊」の神が三位一体のように、切っても切り離せません。最初の人アダムは、神によって土地のちりで形造られ、その鼻に息を吹き込まれると生きた存在になりました。人は、「霊」が「魂」を支配し、「魂」が「体」を支配していました。この状態は、「霊」である神が中心なので、「魂」は健全で、肉の欲も健全でした。永遠に生きる存在でしたが、罪を犯した時、「霊」が離れて、「霊」の部分が死に、「魂」と「体」だけになりました。人は死ぬべき存在になりました。イエスが立って大声で叫ばれた「渇き」は、「霊」に対する渇きです。
③心の奥底
「心の奥底」は、かつて「霊」が存在していた場所です。イスラエルには、水なし川が数多くあります。乾季には水のない枯れた川
ですが、雨季になると鉄砲水が流れて来ます。イエスを信じるなら、枯れた心の奥底に「聖霊が鉄砲水のように流れる」というのです。
(3)39節・・・『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』
「栄光を受ける」とは?
十字架、復活、昇天を指します。昇天したイエスが10日後に120人の弟子たちの上に聖霊を注がれました。ペンテコステの日
に「栄光を受ける」預言が成就し、教会が誕生しました。これが、先日教会でお祝いしたペンテコステであり、教会が誕生した日です。
(4)40~43節・・・『このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。』
★イエスの評価に関して分裂が起こった
①「あの預言者」(=モーセのような預言者)・・・『申命記18:15参照』
②キリスト(=メシア)
③ガリラヤ出身なのでキリストではない
キリストはダビデの子孫であり、ベツレヘムで生まれると預言されているので、「キリストはガリラヤで生まれない」というのは正しいが、この人々は、イエスが「ベツレヘム」で誕生したことを知らなかった。
(5)44節・・・『その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。』
イエスが十字架につけられる時は来ていなかった。神の御心を歩むなら、働きが完成するまで神が守って下さる。
2、パリサイ人の反応 (45節~52節)
(1)45~46節・・・『それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連
れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
①手ぶらで帰ってきた役人たち
祭司長とパリサイ人たちは、役人たちに「イエスを逮捕して連れて来るように」と命じていたのに手ぶらで帰って来たため詰問した。
②役人たちはイエスの話に感動した
役人たちは、これまでも高名なラビたちの講話を何度も聞いていたが、イエスの教えはそのどれとも違っていて感動した。
(2)47~49節・・・『すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」』
①無知ゆえ惑わされている
パリサイ人は役人に、「あなたがたは無知ゆえ惑わされている。のろわれている」と言い放ったが、惑わされているのはどちらか?
②イエスを信じる議員や指導者たちはいた
パリサイ人たちは、まさかイエスを信じている議員がいるはずはないと思っていましたが、ユダヤの国会議員(サンヘドリン)の「ニコデモ」や「アリマタヤのヨセフ」はイエスを信じていたし、他にも、『指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。』(ヨハネ12:42)と書かれています。
(3)50節~52節・・・『彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」』
①隠れ信者のニコデモが提言
ニコデモはパリサイ人たちに、「モーセの律法に基づいて、相手の言い分を聞いてから判決を下すべきだ」と提言した。
②「ガリラヤから預言者は起こらない」は間違い
「ホセア」「ヨナ」「エリシャ」などの預言者はガリラヤ出身であった。パリサイ人たちは知ったかぶっているが案外無知であった。
結論
1、招きの対象・・・「誰でも」
(1)すべての人が救いに招かれている。
(2)滅びに定められている人はいない。
(3)しかし、すべての人がイエスのもとに来るわけではない。
2、救いの前提・・・「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」
(1)霊的に渇いている人だけがイエスのもとに来る。
(2)「水を飲む」とは、イエスを信じてイエスで心を満たすことである。
3、信じた者への約束・・・「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(1)霊的渇きとは神に対する渇きであり、神への渇きが完全にいやされる。
(2)霊的に生まれ変わる。
(3)聖霊に満たされ力を受ける
(4)聖霊に導かれるようになる。
4、救われた者に起こること
(1)聖霊が中心部から外側に向かって流れるようになる。
(2)聖霊の流れは人を三重の意味で生かす。①幸せにし、②祝福し、③健康にする。(第三ヨハネ1:2参照)
(3)聖霊の流れは人と環境に影響を与える。
(4)聖霊の流れは、自覚しなくても信じた瞬間から始まっている。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書7章37節~52節」
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
7:40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
7:41 またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
7:42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
7:43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
7:44 その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
7:45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
7:48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
Posted by 出前牧師カンちゃん at 23:23│Comments(0)
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