2016年07月31日

2016年7月31日 日曜礼拝 説教要約

2016年7月31日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「解放者であるイエス・キリスト②」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章51節~59節
説教者:菅野直基牧師

今日は前回の続きです。イエスは宮の中で説教をしました。前回は、「イエスは罪からの解放者」と「イエスは悪魔からの解放者」の2つを学び、今回は、「イエスは死からの解放者」について学びます。聖書は、『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。』 (31節)と語りますが、イエスは信じたユダヤ人たちの化けの皮を剥ぎ取るかのように、核心部に触れますと、彼らは反発し、さらに、59節を見ると『すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。』 とあります。そのメッセージについて今日も学びます。


1、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」① (51~53節)

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」』

(1)イエスの教え①・・・(51節)
Ⅰイエスの教えは「福音」である(51節)
Ⅱ「まことに、まことに」の原文は、「アーメン、アーメン」である(51節)
  イエスは、重要なことを語る前によく使われた言い回しである、ヨハネの福音書で25回使われている。
Ⅲ福音の内容(51節)
 ⅰ、「決して死を見ることがありません」。この「死」は、「肉体の死」ではなく、「霊的永遠の死」のことである。霊的永遠の死とは、永遠に神から切り離されることであり、ヨハネは、3章16節で「滅び」という言葉を使って語っている。
 ⅱ、「だれでもわたしのことばを守るなら」。これは、「わざによる救い」を教えているのではなく、信仰の応答であり、信仰を行動で表すことである。行動に現れない信仰は口先だけであり、偽りであるか、信じていると思い込んでいるかどちらかである。
 ⅲ、こういう宣言ができるのは神だけである。これは、イエスが「わたしは神である」といっているのと等しいことである。

(2)ユダヤ人の反応①・・・(52節~53節)
Ⅰユダヤ人の誤解(52節)
「死を味わうことがない」を、霊的永遠の死ではなく、肉体の死のことと誤解して受け取った。もし、死なない人がいるとしたら、アブラハムや預言者くらいなものだが、アブラハムも預言者も死んだのだ。イエスの教えは矛盾そのものだと応答した。
Ⅱイエスに対する決め付け(52節)
  ⅰ、イエスは気違いだ。ⅱ、イエスは悪霊につかれている。ⅲ、以前よりも、もっと悪霊につかれていると確信に至った。
Ⅲイエスがアブラハムより偉大なはずがない(53節)
Ⅳアブラハムも預言者も死んだ(53節)
  ⅰ、アブラハムも預言者も、人を救う以前に自分も救えずに死んだ。ⅱ、イエスは自分だけではなく、人を救おうというのか。ⅲ、イエスは自分を誰だと思うのか? ⅳ、イエスは自己顕示欲の塊だ。
Ⅴ誤解しているが、実際はどうなのか?(53節)
  ⅰ、イエスは、アブラハムより偉大である。ⅱ、イエスは、本当の事をいっているだけで、自己顕示欲で語っているのではない。


2、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」② (54節~57節)

『イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」』

(1)イエスの教え②・・・(54節~56節)
ⅰユダヤ人の誤解を解く(54節)
イエスは、少し前の8:50で、「わたしはわたしの栄誉を求めません。」といわれたが、「自分で自分の栄光を求めることは空しいことである。父なる神がわたしを弁護され、わたしに栄光を与えられる」と語られた。私たちもこう生きたいものです。
ⅱユダヤ人(あなたがた)は偽り者である(54節~55節)
ⅰ、「あなたがたは天の父を『私たちの神である』といっているがそうではない。」 ⅱ、「あなたがたは、律法を守っていないし、神を知っていない。」 ⅲ、「あなたがたの父は悪魔である。悪魔が偽り者であるあるように、あなたがたも偽り者だ。」と語った。
Ⅲイエス(わたし)には偽りがない(54節~55節)
ⅰ、「わたしは父を知っている。」 ⅱ、「わたしは父のみことばを守っている。」 ⅲ、「あなたがたは、わたしと父が一つであることを否定するが、それは事実だ。」 ⅳ、「ゆえに、わたしが『父を知らない』というなら、わたしは偽り者となるのだ。」と語った。
Ⅳユダヤ人が「アブラハム」の名を出すので、それに応答して語る(56節)
ⅰ、「あなたがたの父アブラハム」といったは、名実を指していったのではなく、血縁関係のある子孫であるということをいったに過ぎない。ⅱ、「わたしの日」とは、イエスがこの地上に誕生し、救いのみわざを成し遂げる日、つまり今のことである。
Ⅴアブラハムは、いつイエスを見て喜んだのか?(56節)
ⅰ、アブラハムは、信仰によってイエスの受肉、降誕と十字架による救いの完成を知り、それを見た。ⅱ、アブラハムは、神の命により、イサクを生贄として捧げた。イサク奉献は、イエスの死と復活を予表するできごとであった。そのできごとの中で見たか。

(2)ユダヤ人の反応②・・(57節)
ⅰユダヤ人の誤解(57節)
ⅰ、「アブラハムがイエスを見た」といったのに、「イエスがアブラハム見た」と間違って受け止めている。ⅱ、イエスとアブラハムは同時代に生きていないので、「見るはずはない」と決めてかかった。ⅲ、イエスの年齢は33歳くらい。ⅳ、50才に満たない。ⅴ、アブラハムは、イエスのこの時代から2000年も前の人である。ⅵ、「そんなバカな話があるか」と考えた。


3、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」③ (58節~59節)

『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』

(1)イエスの教え③・・・(58節)
ⅰ再び、「まことに、まことに(アーメン、アーメン)」と語る(58節)
イエスは、「大切なことを語るので、よく聞いて下さい」と、注意喚起する意味でこのフレーズを度々使った。重要な内容である。
ⅱイエスの永遠性、神性が掲示される(58節)
  イエスは、アブラハムが生まれる前から存在するというのは、永遠の存在者である。つまり、「わたしは神である」という宣言だ。

(2)ユダヤ人の反応③・・・(59節)
ⅰ誤解なく受け取った(59節)
ⅰ、イエスが「わたしは神である」と宣言したと受け取った。ⅱ、ユダヤでは、「わたしはキリストである」と語ることは冒とく罪にはあたらないが、ⅲ、「わたしは神である」と語ったり、自分を神と等しく扱うことは冒とく罪にあたり、ⅳ、石打の刑にあたった。ⅴ、だから彼らは、イエスに石を投げつけようとした。
ⅱしかし、イエスは逮捕されなかった(59節)
  ここでは語られていないが、「イエスの時」つまり、「イエスが十字架につけられる時」がまだ来ていなかったからである。

結論

1、イエスの神宣言

(1)『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」』 (ヨハネ8:58)
  ①「まことに、まことに」・・・「アーメン、アーメン」
  ②「わたしはいるのです」・・・新共同訳では、「わたしはある」

(2)『神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」』 (出エジプト3:14)
  ①「わたしはある」・・・神の永遠性を指し示す神の御名である。

(3)イエスは、この「わたしはある」という名前を使われたのである
  イエスは、紛れもなく、「わたしは神である」と神宣言されたのである

(4)イエスは、この神宣言通りのお方である

2、イエスの神宣言に対してどう応えるか?

(1)信じる
  ①イエスを「救い主、人生の主」と信じるなら、死を見ることがない。
  ②罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちを受ける。
  ③永遠のほろびから解放される。
   『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』 (ヨハネ3:16)

(2)拒否する
  ①ユダヤ人たちは、ご自分の前に立つ神であるイエスを認めなかった。
  ②認めないだけではなく、石を投げつけようとした。
  ③それゆえ、『イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』 (59節)

3、イ・カボテ(栄光は去った)

(1)「イエスが宮から出て行かれた」というのは、「イ・カボデ(栄光は去った)」であった。

(2)『彼女は、「栄光がイスラエルから去った。」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは神の箱が奪われたこと、それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。彼女は、「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。」と言った。』 (第一サムエル4:21~22)

(3)エゼキエル10章~11章では、主の栄光が宮から去ったことが書かれている。

4、イエスはあなたに取って誰なのか?

(1)イエスを信じるなら、あなたという神の神殿の中に、イエスという神の栄光(シャカイナ・グローリー)が住まわれる。

(2)『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』 (第一コリント3:16)

(3)イエスを拒否するなら、あなたという神の神殿からイエスという神の栄光(シャカイナ・グローリー)が去り、切り離される。

(4)人生における空しさ、つらさ、恐れなどの原因は、神の栄光が去った「イ・カボデ」が原因である。

(5)悔い改め、イエスを信じ、神に心を向け、神を求めよう。再び、あなたという神の神殿に神の栄光が満ち溢れるようになる。

★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書8章51節~59節」

8:51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
8:55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。



Posted by 出前牧師カンちゃん at 07:54│Comments(0)説教要約
 
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プロフィール
出前牧師カンちゃん
出前牧師カンちゃん
新宿福興教会(http://www.geocities.jp/sgr_ch/)の牧師です。ここでは、日曜日の礼拝説教の要約を載せえいます。よろしく。
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