2016年09月25日

2016年9月18日 敬老感謝礼拝 説教要約

2016年9月18日 敬老感謝礼拝 説教要約
説教題:「信仰の先輩たちが与えてくれた教訓」
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章1節~12節
説教者:菅野直基牧師

今日は、明日の敬老の日を覚えて敬老感謝礼拝を捧げます。敬老とは、年を取った人を敬うという意味です。聖書は、「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ記19:32)と語ります。しかしこれは、儒教的な意味の道徳律ではなく、聖書が教える愛の具体的な形です。目の上の人を尊敬し、大切にすることは、愛するなら当然起こって来ることです。目上の人に対する愛を思い起こす日となったら幸いです。次に聖書は、年配者たちが残し、与えてくれた教訓を大切にするように教えます。パウロは、信仰の先輩たちの生き方とその末路を示して、その歴史を教訓としなさい。そして、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント第一10:12)と、コリントの教会の一人一人に勧めました。この言葉は、新宿福興教会に私たち一人一人に向かっても語られた言葉であると受け止めましょう。

1、信仰の先輩たちの通った道

聖書は、信仰の先輩たちが通って来た道を語ります。これは、私たちも通る道です。「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(コリント第一10:1~4)ここで、「雲」は「聖霊」を表し、「海」は「洗礼の水」を表します。また、「御霊の食べ物」は「天から下って来たマナ(食べ物)」の事で、「御霊の飲み物」は「飲料水」です。神は、一人の人「アブラハム」を選び、アブラハムから「イスラエルの民」を造られました。イスラエルの民は、ヨセフの時代からエジプトに移り住み、ヨセフが死んでからはエジプトで奴隷生活を強いられました。イスラエルが、「神様、奴隷の生活から救い出して解放して下さい」と祈ると、神は、「モーセ」を選んで、イスラエルをエジプトから解放するために立てられました。イスラエルの民は、モーセを先頭にエジプトから脱出しました。これを「出エジプト(ヘブライ語: שמות‎、英語: Exodus)」と言います。まず、モーセが杖を天に向かって差し伸べると、紅海が真っ二つに割れて、そこにできた道を通って、エジプトの地を後にしました。その時、イスラエルの民は、水しぶきを受けました。洗礼を象徴しました。また、モーセより先に、昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」がイスラエルを導きました。聖霊様でした。紅海を渡った先にあった地は荒野でした。荒野は昼暑く、夜寒いのです。昼間は、雲の柱が直射日光をさえぎり、夜は、同じ雲の柱が火の柱となって、凍えるような寒さを暖めてくれました。また、荒野には、命も、食べ物も、飲み物もありませんが、神様は、天からマナを降らせ、岩から水を出させて、イスラエルが餓えて死なないように食べ物と飲み物を与えてくれました。みなさん、信仰の先輩たちが通った道は、私たちも通る道です。「雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」とは、私たちが、イエス様を信じた時に、イスラエルがモーセをついて出エジプトをしたように、イエス様について罪の奴隷の生活から脱出し、また、イスラエルが「雲」と「海」でモーセにつくバプテスマを受けたように、「聖霊と火のバプテスマ」と「水の洗礼」を象徴するイエスのつくバプテスマを受けてクリスチャンになります。さらに、御霊の食べ物が象徴する「聖書の言葉」と御霊の飲み物が象徴する「聖霊の水」を飲みながらクリスチャン生活を送ります。この世の荒野がどんなに厳しい環境でも、霊的に死ぬ事がありません。聖書は、「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下に新しいものは一つもない。」(伝道者の書1:9)とありますが、信仰の先輩たちが通って来た道を、私たちも通っているのです。私たちの信仰は新興宗教ではなく、数千年の歴史があるものなのです。その道を共に歩んでいきましょう。

2、信仰の先輩たちの通った道とその末路

イスラエルの民が出エジプトし、荒野を通って、約束の地「カナン」を目指して旅を始めました。私たちに取っては、天国を目指しての旅である毎日のクリスチャン生活です。もし、聖書が宗教書であるならば、信仰の先輩たちの「成功例」を語り、「同じ道を歩みなさい」と締め括ったことでしょう。しかし、聖書は宗教書ではなく、神の言葉です。人間のありのままの姿を語っています。そこには、ありのままの姿を否定しないで、受け入れ、赦し、愛しておられる神の心がよく現されています。神は、私たちのことも、ありのままの姿を否定せずに受け入れ、赦し、愛して下さっています。神の愛は、罪や失敗を水に流しているのではなく、罪の刑罰を一人子イエス・キリストが十字架で身代わりに引き受け、墓に葬られ、三日目によみがえられたので与えられています。神は、いつの時代も愛の神です。しかし、義の神でもあり、赦しと同時に、私たちが成長し、祝福されたクリスチャン・ライフと天国への道を歩むことを願っておられます。信仰の先輩たちが失敗した「失敗例」を指し示し、戒めとし、教訓としなさいと教えます。イスラエルは、良いスタートを切りました。しかし、途中から道を踏み外してしまったのです。私たちクリスチャンも、良い信仰生活のスタートを切ったのに、途中から道を踏み外し、迷って信仰を捨ててしまう可能性があります。イスラエルが道を踏み外したのは、3つの罪でした。①「偶像崇拝」 ②「姦淫」 ③「不信仰」と「不従順」です。そして、その末路は、「神の裁き」と「蛇の毒」によって滅ぼされてしまいました。クリスチャンが陥りやすい具体的な罪は、「偶像崇拝」と「姦淫」です。偶像崇拝は、神でないものを拝んだり、神よりも大切なものを持つことです。姦淫とは、結婚した人が行う「性的不道徳」です。未婚の人が同じ事を行った場合は「不品行」と言います。イスラエルの民が姦淫を行った時に、一日に23000人もの人に神の裁きが下って死にました。このできごとは、イエス・キリストの十字架以前だから、厳しい裁きが下ったと言えるかも知れませんが、クリスチャンになってからも、性的な不道徳を行い続けるならば、死ぬ事ではないにせよ、何らかの形で神の裁きが下る可能性があることを知って下さい。そして、不信仰と不従順は、「蛇」を象徴する「悪魔」によって圧迫され、喜びと力を失い、神から離れて、罪と悪魔の奴隷とされてしまいます。みなさん、神様は、いつも今、救いと回復のチャンスを与えて下さっています。『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(コリント第二6:2)また、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』(ヘブル4:7)と書かれています。信仰の先輩の末路を見て、同じ道を歩まず、悔い改めて、聖書の言葉と神様に従って歩んで行きましょう。初代ドイツ帝国宰相のオットー・フォン・ビスマルク(1815年 ~1898年)は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」と語りましたが、失敗して、痛い目に遭ってから真剣に悔い改めるのもいいですが、痛い目に遭う前に、今日、今、信仰の先輩たちの末路から教訓として学び、生きて参りましょう。

3、立っていると思う者は、倒れないように気をつけましょう

聖書は、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント第一10:12)と語ります。どうぞ、「私は大丈夫!」と思っている人は気をつけて下さい。また、「私は弱いので不安です!?」と思っている人はもっと気をつけて下さい。つまり、誰もが気をつけないと、気がついたら罪に陥り、滅びに向かう道を歩み始めてしまいます。信仰の先輩たちを見て、親近感が湧いて来るのではないでしょうか? 偉大な指導者であったモーセも最後は失敗して、約束の地「カナン」には入れませんでした。バトンを受け継いだ「ヨシュア」が、滅ぼされたイスラエルの民の子孫たちを「カナンの地」に導きいれました。ヨシュアがすごい人だったという事ではなく、ヨシュアは、神の恵みによって次世代のリーダーとなり、イスラエルやモーセの失敗を教訓として倒れないで指導者としての働きを全うする事ができました。みなさん、私たちもヨシュアのように、「神の恵みによって守って下さい」と祈り、また、失敗の歴史を教訓としながら、次世代のリーダーとなって下さい。これから教会に新しい人がたくさん導かれて来ます。あなたは、その人たちを先輩として、リーダーとして導くバトンが手渡される人です。失敗してから学ぶのではなく、歴史から学んで下さい。多くの牧師やクリスチャンのリーダーが失脚し、信仰を失った直接的な原因は、①金銭 ②不品行 ③名誉の問題です。お金にクリーンになる秘訣は、什一献金を捧げることです。不品行の誘惑とは戦っても勝てませんので、男女の誘惑が起こるシチュエーションを避けて下さい。名誉欲に勝つ秘訣は「感謝」です。不満が名誉を求めさせてしまうからです。

結論

敬老の日に際して、年配者たちに対する愛を、尊敬し、感謝を表していきたいものです。
年配者たちは、私たちよりも先に生まれ、先にいろいろなことを経験して、その生き方とその末路を示してくれました。

1、年配者たちの生き方を見て、聖書が教えている歩み方においては、模範として歩んでいきましょう。
2、年配者たちの生き方を見て、聖書が誤りとして教える歩み方においては、教訓として避けていきたいものです。
3、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」とある通り、主の憐れみを求めながら歩んで参りましょう。

「本日の聖書箇所」 新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章1節~12節

1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
7 あなたがたは、彼らの中にある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
8 また、私たちは彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。



Posted by 出前牧師カンちゃん at 20:16│Comments(0)説教要約
 
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プロフィール
出前牧師カンちゃん
出前牧師カンちゃん
新宿福興教会(http://www.geocities.jp/sgr_ch/)の牧師です。ここでは、日曜日の礼拝説教の要約を載せえいます。よろしく。
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