2016年10月2日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「カルバリーの十字架に隠された宝」
聖書箇所:コリント人への手紙第一1章18節~2章~2節
説教者:菅野直基牧師
初代教会は、文字通り、「十字架につけられたイエス・キリスト」を宣べ伝えていました。しかし、時代が変わり、価値観が変わり、教会は十字架につけられたイエス・キリストではなく、人間イエスを語るようになり、さらに時代が変わり、キリスト教のいい感じの話をするようになってしまいました。これは、この世との妥協であり、教会が力を失った原因です。私たちは、初代教会に立ち返り、イエスの弟子たちが語っていたように、十字架につけられたイエス・キリストを語っていきましょう。
1、なぜ十字架にかけられたキリストを伝えるのでしょう?
最初の人アダムとエバが罪を犯し、罪と罪責の絶望、虚無と無意味の絶望、死と無の絶望に陥ってしまいました。アダムとエバの子孫である私たちも、この絶望から逃れられません。キルケゴールは、「死に至る病とは絶望である」と語りました。聖書は、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(第一コリント15:56)と語ります。私たちは、罪によって死に至る病になっているのです。この病をいやし、解決する方法は、十字架にかけられたキリスト以外にないからです。
2、人は絶対絶望的な存在
世界は混沌としています。人が善なる存在であるとしたら、自衛隊も軍隊も必要がありません。理想や常識は通用しません。聖書は、「今は悪い時代なのである。」(エペソ5:16)語ります。アダムとエバの罪の結果、人は絶望的存在となっているからです。十字架にかけられたキリストが必要です。キリストのもとに行かざるを得ません。今日も、ありのままで十字架にかけられたキリストの前に進み出ていきましょう。
3、カルバリーの十字架に隠された宝
宝が十字架に隠されています。死に至る病から救う道は、政治、経済、科学、宗教、文化、社会などのどこにもありません。①罪の赦しと義認 ②神との和解と聖霊の満たし、③心と体の病のいやし ④呪いと貧しさからの解放、⑤死の撤廃と永遠のいのちがあります。悪魔は、十字架にかけられたキリストから目を反らせようと絶えず目論んでいます。騙されてはいけません。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:10~11)良い牧者であるキリストがいのちを捨てられた十字架にこそ、絶対的な希望の宝が隠されています。キリストの十字架を思い起こし、キリストの十字架を見上げ、キリストの十字架の前に進み出て行くならば、すべての絶望は希望に変わります。
4、十字架の宝が適用される範囲
聖書は、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(第三ヨハネ1:2)と書かれています。ここには、十字架の救いが適用範囲が書かれています。①たましいの領域 ②すべての環境の領域 ③肉体の領域です。十字架は、2000年の時と、エルサレムと東京という空間を超えて、今ここにいる私たちに直接働きます。まず、①私たちの心の中に働いて、つらさ、恐れ、心配、憎しみ、傷等から解放し、希望と平安と幸せを与えてくれます。②十字架は、私たちのすべての環境に働いて、経済の問題、人間関係の問題をはじめ、あらゆる問題を解決し、祝福し、神の御心を実現させて下さいます。③さらに、肉体の病をいやし、健康を与えて下さいます。何という豊かさでしょう。
結論
1、絶対絶望と絶対希望を知る
人は、アダムとエバの罪の結果、死に至る病にかかり、絶対絶望的存在となっている。これを解決するには、キリストの十字架以外にはないことを知ることが必要。これがわからなければ、キリストの十字架が必要だと感じることはできない。
2、まだ救われていない人は、十字架の救いを受けましょう
「キリストが私の罪の身代わりに十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみがえられた」と、信じることによって与えられる。
3、キリストの十字架によって、絶対的な希望が与えられる
①罪の赦しと義認 ②神との和解と聖霊の満たし、③心と体の病のいやし ④呪いと貧しさからの解放、⑤死の撤廃と永遠のいのちが、 ①たましいの領域 ②すべての環境の領域 ③肉体の領域に与えられる。
★今日の聖書箇所 「コリント人への手紙第一1章18節~2章~2節」
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。