2016年10月29日
2016年10月23日 日曜礼拝 説教要約
2016年10月23日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「イエスはラザロを死からよみがえらせる①」
聖書箇所:ヨハネの福音書11章1節~27節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
前回は、イエスへの信仰を妨げる障壁が何かを学びました。エルサレムでは、ユダヤ人の指導者たちがイエスを取り囲み、言葉尻を捕らえて逮捕しようと躍起になっていました。話し合えば話し合う程に、両者の溝は深まる一方でした。ところが、ヨルダン川の東にあるペレアに移動した途端、イエスを信じる人が次々に現れました。このできごとから見えて来たのは、人々の優越意識と高慢がイエスへの信仰を妨げていることでした。
今日は、イエスがペレアで活動しているところに、ベタニアに住むマルタとマリヤが人を遣わして、「兄弟のラザロが病気なので来てほしい」と伝言を伝えました。イエスは2日後にベタニアに行きますが、着いた時にはラザロは死に、死後4日が経過していました。イエスはラザロをよみがえらせられました。今日は、聖書が教える「死といのち」についてと、「光と闇」について学びたいと思います。
1、ラザロのニュースを聞いたイエスと弟子たち (1~16節)
ヨハネは、マルタ、マリヤ、ラザロの3兄弟を、マリヤを中心に紹介しています。『このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、』 (2節)。イエスは、ことのほかこの3人の兄弟を愛していました。3人の住む「ベタニア」は何もない無名の町でしたが、イエスのおかげで有名な町になりました。これは、どんなに小さな町でも、どんなに小さな人でも、イエスを迎え、イエスと共に歩むなら、偉大な町、偉大な人に変わることを教えています。絶えず祈り、絶えずイエスと共に歩んで行きましょう。
ある日、ラザロが重い病気になりました。病気の大元の原因は罪ですが、聖書は、個々の病人に対して、「罪が原因でこの病気にかかった」とは教えていません。ラザロは、むしろイエスに愛されていました。ここに二種類の愛があります。『あなたが愛しておられる者が病気です。』 (3節)一つ目は、「あなたを愛しておられる者」。二つ目は、「あなたが愛しておられる者」です。両方素晴らしいですが、「あなたを」の愛は、人間の不完全な愛です。しかし、「あなたが」の愛は、神の一人子イエスの愛なので完全な愛です。今日、「イエスが、この私を愛しておられる」ことを信じて下さい。ラザロは、イエスが愛しておられましたが、使いを送った直後に死にました。
イエスは、この状況を知って、『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』 (4節)と語りました。その意味は、①ラザロは死んだが、死で終わるものではない。②ラザロは復活し、神の栄光が現われる。③そのできごとによって、イエスは栄光を受ける。確かにイエスは、ラザロを復活させたことで栄光を受けることになります。しかし栄光は、このできごとによって十字架の死に導かれることです。イエスが受ける栄光は十字架の死だからです。
イエスは、ラザロが重病であるニュースを聞きましたが、すぐにベタニアには向かわず、2日間ペレアに滞在しました。ベタニアからの使いがペレアに着くのに1日、イエスの2日の滞在、そして、イエスがペレアからベタニアに移動するのに1日かかったので、イエスがベタニアに着いた時には、ラザロは死んでから4日が経過していました。イエスがすぐに移動しなかった理由は何でしょう。①イエスが十字架につく時がまだ来ていなかったから。②父なる神が留められたからです。イエスは、父なる神のタイムテーブルに従って歩んでいました。
これに対して弟子たちは、少し前に、イエスがエルサレムで石打で殺されかけたので、エルサレムに近いベタニアに行くのは危険だからいってほしくないと思い、イエスを引きとめました。しかしイエスは、神の導きに従うなら、危険ではないと考えていました。
イエスは、『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』 (11節)と話しました。①これから会いに行くラザロは友である。②ラザロが「眠っている」というのは、「死んだ」という意味だ。③新約聖書で「眠る」とは、クリスチャンが死んだ場合にのみ使う言葉です。④「眠りからさましに行く」とは、「よみがえらせるために行く」という意味。しかし弟子たちはその意味を理解できませんでした。①眠っているなら、わざわざ起こしに行く必要はない。②イエスを行かせない口実を語った。
イエスは、誤解している弟子たちに、『ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。』 (14~15節)と語ります。①「ラザロは死んだのです」と、明確に語った。②ラザロが死んだ場所に居合わせなかったことを喜ぶ。③もちろん、ラザロの死を喜んでいるわけではない。④喜んだ理由は、イエスがそこに居合わせたらラザロは死ななかったはず。イエスの前で人が死んだと言う記述はない。⑤この状況になったからこそ、ラザロを復活させる奇跡を行える。⑥イエスは、このできごとを通して「あなたがたが信じるため」であると語った。⑦信じていても、それがゴールではなく、信仰は成長し続けるものだから。⑧私たちの信仰も日々成長していくもの。
トマスは、他の弟子たちに向かって、『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』 (16節)と語った。トマスは疑い深いことでよく知られている人。失望と落胆から出た開き直りに似た言葉であったのでは。①トマスは、「イエスの購いの死」と「自分たちの自己犠牲の死」の違いがわかっていない。②しかし、後に、ヨハネを除いて、弟子たちのすべてが殉教によって死ぬことになった。
2、イエスとマルタの一対一の会話 (17~27節)
イエスがベタニアに着くと、ラザロは死後4日が経過していて、墓に入れられていました。4日も経ってしまった理由は、先ほども話しましたが、使者がイエスの元に来るのに1日かかり、イエスがベタニアに向かったのが2日後であり、ベタニアまでの旅路に1日かかったからです。しかし、それだけではありません。当時、死者の魂は3日間この世を漂うと教えられていました。4日経ったなら、もう生き返ることはできないと考えられていました。/人が死ぬと、遺体を麻布に包んで埋葬しました。そうすると、やがて体液が流れ出して骨だけが残ります。そうしたら、骨を石棺に納めました。ラザロは麻布で包まれて墓に収められていました。
ベタニアはエルサレムから約3kmの距離にありました。徒歩1時間弱です。エルサレムからも、ラザロの死を悼んで多くの人が弔問に訪れていました。いよいよイエスの十字架の死の時が近づいていることが感じ取れる状況になりました。
ここで、マリヤとマルタの特徴を見ることができます。『マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。』 (20節)①マルタは、外交的で行動的。②マリヤは、内向的でよく聞きよく考えるタイプでした。マリヤは家ですわって祈っていたのでしょう。ここでは、この1節にしか登場しません。かつてイエスは、『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』 (ルカ10:41~42)と語りました。これは、内向的が良くて外交的が悪いと言っているのではありません。その時の状況においては、マルタよりもマリヤが良い方を選んだと言っているだけです。どちらのタイプも良いのです。
マルタは、『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。』 (11:21~22)と語りました。これは、マルタの信仰告白です。/また、決してイエスを責めているのではありません。イエスに伝わる前にラザロは死んでいたからです。
イエスは、『あなたの兄弟はよみがえります。』 (23節)と語りました。①ラザロは今すぐよみがえるという意味。②マルタの信仰を呼び覚まそうとしている。しかしマルタは、『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』 (24節)①ラザロの復活を信じてはいたが、「今復活する」という信仰はなかった。②「終わりの日によみがえる」と信じていた。③未来の信仰はあったが、現在進行形の今の信仰に欠けていた。
イエスは、『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』 (25~26節)と語りました。①「わたし、~である」というのは、イエスの五番目の神宣言である。②わたしは十字架で死んで、よみがえる。③わたしの死と復活を信じるなら、死んでも生きる。④その意味は、肉体は死ぬが霊は永遠に生き続ける。⑤永遠に生き続ける霊は、やがて栄光の体と一体になる。つまり、よみがえる。聖書は語ります。『栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。』 (第二コリント3:18)私たちも、よみがえります。
マルタはイエスに語りました。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』 (27節)と。マルタの信仰は、①イエスはキリストである。②イエスは神の子である。③イエスは天からこの地に来られた方である。④マルタの信仰はここまでで、イエスが、今すぐラザロをよみがえらせて下さる信仰はなかった。⑤私たちも、胸に手を当てて吟味したいと思います。今生きて働いて下さるイエスを信じているでしょうか? イエスは、ラザロをよみがえらせた時と同じく、今も生きて働いておられます。
結論
1、聖書が教える「死といのち」
聖書は、死の原因は罪であると教えます。『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』 (ローマ5:12)
肉体の死は、目に見えない霊的死をわかる形で教えます。①肉体の死は、「霊」と「肉体」の分離です。②霊的死は、「神」と「私」の分離です。③霊的死は、イエスを拒絶し続けることで継続します。④しかし、イエスを信じるなら、「神」と「私」が一つになるのでいのちが与えられます。⑤「霊」と「肉体」の分離が、肉体の死と生の明暗を分けるように、「神」と「私」の分離が、霊的な死と生の明暗を分ける。⑥イエスを信じる人は、やがて栄光の体によみがえって永遠に生きることができる。⑦しかし、イエスを拒否して、霊的に死んだ状態の人は、やがて「火の池」に行く。「第二の死」である。『それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。』 (ヨハネの黙示録20:14~15)
「第二の死」と「永遠のいのち」は、決して超えることができないし、その(地獄と天国の)両方の場所を行き来することができない。第二の死の現実を受け止めて、イエスを伝え続けていきたいものです。聖書は語ります。
『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。』 (第二テモテ4:2~5)
2、「現実の光と闇」と「霊的な光と闇」
光と闇は、ヨハネの福音書の一つのテーマです。『イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」』 (11:9~10)①昼間は、太陽が出ている時間のこと。②昼間は太陽が出ているのでつまずかない。③霊的な意味の昼間は、神の光のあるところを意味します。④神の導きを受け、神の御心を歩むなら霊的な昼間なので安全。⑤しかし、神の導きを受けず、神の御心の外を歩むなら霊的な闇なので危険だ。⑥神の導きと御心の中を歩むなら、神が定めた時以外に死が襲うことはない。⑦福音が伝えられている今、イエスを信じないならば、やがて闇がやって来て福音を聞くことができなくなる。⑧だから、今日、今、イエスを信じましょう。⑨そして、今日、今、イエスを伝えましょう。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書11章1節~27節」
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
説教題:「イエスはラザロを死からよみがえらせる①」
聖書箇所:ヨハネの福音書11章1節~27節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
前回は、イエスへの信仰を妨げる障壁が何かを学びました。エルサレムでは、ユダヤ人の指導者たちがイエスを取り囲み、言葉尻を捕らえて逮捕しようと躍起になっていました。話し合えば話し合う程に、両者の溝は深まる一方でした。ところが、ヨルダン川の東にあるペレアに移動した途端、イエスを信じる人が次々に現れました。このできごとから見えて来たのは、人々の優越意識と高慢がイエスへの信仰を妨げていることでした。
今日は、イエスがペレアで活動しているところに、ベタニアに住むマルタとマリヤが人を遣わして、「兄弟のラザロが病気なので来てほしい」と伝言を伝えました。イエスは2日後にベタニアに行きますが、着いた時にはラザロは死に、死後4日が経過していました。イエスはラザロをよみがえらせられました。今日は、聖書が教える「死といのち」についてと、「光と闇」について学びたいと思います。
1、ラザロのニュースを聞いたイエスと弟子たち (1~16節)
ヨハネは、マルタ、マリヤ、ラザロの3兄弟を、マリヤを中心に紹介しています。『このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、』 (2節)。イエスは、ことのほかこの3人の兄弟を愛していました。3人の住む「ベタニア」は何もない無名の町でしたが、イエスのおかげで有名な町になりました。これは、どんなに小さな町でも、どんなに小さな人でも、イエスを迎え、イエスと共に歩むなら、偉大な町、偉大な人に変わることを教えています。絶えず祈り、絶えずイエスと共に歩んで行きましょう。
ある日、ラザロが重い病気になりました。病気の大元の原因は罪ですが、聖書は、個々の病人に対して、「罪が原因でこの病気にかかった」とは教えていません。ラザロは、むしろイエスに愛されていました。ここに二種類の愛があります。『あなたが愛しておられる者が病気です。』 (3節)一つ目は、「あなたを愛しておられる者」。二つ目は、「あなたが愛しておられる者」です。両方素晴らしいですが、「あなたを」の愛は、人間の不完全な愛です。しかし、「あなたが」の愛は、神の一人子イエスの愛なので完全な愛です。今日、「イエスが、この私を愛しておられる」ことを信じて下さい。ラザロは、イエスが愛しておられましたが、使いを送った直後に死にました。
イエスは、この状況を知って、『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』 (4節)と語りました。その意味は、①ラザロは死んだが、死で終わるものではない。②ラザロは復活し、神の栄光が現われる。③そのできごとによって、イエスは栄光を受ける。確かにイエスは、ラザロを復活させたことで栄光を受けることになります。しかし栄光は、このできごとによって十字架の死に導かれることです。イエスが受ける栄光は十字架の死だからです。
イエスは、ラザロが重病であるニュースを聞きましたが、すぐにベタニアには向かわず、2日間ペレアに滞在しました。ベタニアからの使いがペレアに着くのに1日、イエスの2日の滞在、そして、イエスがペレアからベタニアに移動するのに1日かかったので、イエスがベタニアに着いた時には、ラザロは死んでから4日が経過していました。イエスがすぐに移動しなかった理由は何でしょう。①イエスが十字架につく時がまだ来ていなかったから。②父なる神が留められたからです。イエスは、父なる神のタイムテーブルに従って歩んでいました。
これに対して弟子たちは、少し前に、イエスがエルサレムで石打で殺されかけたので、エルサレムに近いベタニアに行くのは危険だからいってほしくないと思い、イエスを引きとめました。しかしイエスは、神の導きに従うなら、危険ではないと考えていました。
イエスは、『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』 (11節)と話しました。①これから会いに行くラザロは友である。②ラザロが「眠っている」というのは、「死んだ」という意味だ。③新約聖書で「眠る」とは、クリスチャンが死んだ場合にのみ使う言葉です。④「眠りからさましに行く」とは、「よみがえらせるために行く」という意味。しかし弟子たちはその意味を理解できませんでした。①眠っているなら、わざわざ起こしに行く必要はない。②イエスを行かせない口実を語った。
イエスは、誤解している弟子たちに、『ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。』 (14~15節)と語ります。①「ラザロは死んだのです」と、明確に語った。②ラザロが死んだ場所に居合わせなかったことを喜ぶ。③もちろん、ラザロの死を喜んでいるわけではない。④喜んだ理由は、イエスがそこに居合わせたらラザロは死ななかったはず。イエスの前で人が死んだと言う記述はない。⑤この状況になったからこそ、ラザロを復活させる奇跡を行える。⑥イエスは、このできごとを通して「あなたがたが信じるため」であると語った。⑦信じていても、それがゴールではなく、信仰は成長し続けるものだから。⑧私たちの信仰も日々成長していくもの。
トマスは、他の弟子たちに向かって、『私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』 (16節)と語った。トマスは疑い深いことでよく知られている人。失望と落胆から出た開き直りに似た言葉であったのでは。①トマスは、「イエスの購いの死」と「自分たちの自己犠牲の死」の違いがわかっていない。②しかし、後に、ヨハネを除いて、弟子たちのすべてが殉教によって死ぬことになった。
2、イエスとマルタの一対一の会話 (17~27節)
イエスがベタニアに着くと、ラザロは死後4日が経過していて、墓に入れられていました。4日も経ってしまった理由は、先ほども話しましたが、使者がイエスの元に来るのに1日かかり、イエスがベタニアに向かったのが2日後であり、ベタニアまでの旅路に1日かかったからです。しかし、それだけではありません。当時、死者の魂は3日間この世を漂うと教えられていました。4日経ったなら、もう生き返ることはできないと考えられていました。/人が死ぬと、遺体を麻布に包んで埋葬しました。そうすると、やがて体液が流れ出して骨だけが残ります。そうしたら、骨を石棺に納めました。ラザロは麻布で包まれて墓に収められていました。
ベタニアはエルサレムから約3kmの距離にありました。徒歩1時間弱です。エルサレムからも、ラザロの死を悼んで多くの人が弔問に訪れていました。いよいよイエスの十字架の死の時が近づいていることが感じ取れる状況になりました。
ここで、マリヤとマルタの特徴を見ることができます。『マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。』 (20節)①マルタは、外交的で行動的。②マリヤは、内向的でよく聞きよく考えるタイプでした。マリヤは家ですわって祈っていたのでしょう。ここでは、この1節にしか登場しません。かつてイエスは、『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』 (ルカ10:41~42)と語りました。これは、内向的が良くて外交的が悪いと言っているのではありません。その時の状況においては、マルタよりもマリヤが良い方を選んだと言っているだけです。どちらのタイプも良いのです。
マルタは、『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。』 (11:21~22)と語りました。これは、マルタの信仰告白です。/また、決してイエスを責めているのではありません。イエスに伝わる前にラザロは死んでいたからです。
イエスは、『あなたの兄弟はよみがえります。』 (23節)と語りました。①ラザロは今すぐよみがえるという意味。②マルタの信仰を呼び覚まそうとしている。しかしマルタは、『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』 (24節)①ラザロの復活を信じてはいたが、「今復活する」という信仰はなかった。②「終わりの日によみがえる」と信じていた。③未来の信仰はあったが、現在進行形の今の信仰に欠けていた。
イエスは、『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』 (25~26節)と語りました。①「わたし、~である」というのは、イエスの五番目の神宣言である。②わたしは十字架で死んで、よみがえる。③わたしの死と復活を信じるなら、死んでも生きる。④その意味は、肉体は死ぬが霊は永遠に生き続ける。⑤永遠に生き続ける霊は、やがて栄光の体と一体になる。つまり、よみがえる。聖書は語ります。『栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。』 (第二コリント3:18)私たちも、よみがえります。
マルタはイエスに語りました。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』 (27節)と。マルタの信仰は、①イエスはキリストである。②イエスは神の子である。③イエスは天からこの地に来られた方である。④マルタの信仰はここまでで、イエスが、今すぐラザロをよみがえらせて下さる信仰はなかった。⑤私たちも、胸に手を当てて吟味したいと思います。今生きて働いて下さるイエスを信じているでしょうか? イエスは、ラザロをよみがえらせた時と同じく、今も生きて働いておられます。
結論
1、聖書が教える「死といのち」
聖書は、死の原因は罪であると教えます。『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』 (ローマ5:12)
肉体の死は、目に見えない霊的死をわかる形で教えます。①肉体の死は、「霊」と「肉体」の分離です。②霊的死は、「神」と「私」の分離です。③霊的死は、イエスを拒絶し続けることで継続します。④しかし、イエスを信じるなら、「神」と「私」が一つになるのでいのちが与えられます。⑤「霊」と「肉体」の分離が、肉体の死と生の明暗を分けるように、「神」と「私」の分離が、霊的な死と生の明暗を分ける。⑥イエスを信じる人は、やがて栄光の体によみがえって永遠に生きることができる。⑦しかし、イエスを拒否して、霊的に死んだ状態の人は、やがて「火の池」に行く。「第二の死」である。『それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。』 (ヨハネの黙示録20:14~15)
「第二の死」と「永遠のいのち」は、決して超えることができないし、その(地獄と天国の)両方の場所を行き来することができない。第二の死の現実を受け止めて、イエスを伝え続けていきたいものです。聖書は語ります。
『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。』 (第二テモテ4:2~5)
2、「現実の光と闇」と「霊的な光と闇」
光と闇は、ヨハネの福音書の一つのテーマです。『イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」』 (11:9~10)①昼間は、太陽が出ている時間のこと。②昼間は太陽が出ているのでつまずかない。③霊的な意味の昼間は、神の光のあるところを意味します。④神の導きを受け、神の御心を歩むなら霊的な昼間なので安全。⑤しかし、神の導きを受けず、神の御心の外を歩むなら霊的な闇なので危険だ。⑥神の導きと御心の中を歩むなら、神が定めた時以外に死が襲うことはない。⑦福音が伝えられている今、イエスを信じないならば、やがて闇がやって来て福音を聞くことができなくなる。⑧だから、今日、今、イエスを信じましょう。⑨そして、今日、今、イエスを伝えましょう。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書11章1節~27節」
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
2016年10月14日
2016年10月16日 日曜礼拝 説教要約
2016年10月16日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「イエスへの信仰を妨げる障壁」
聖書箇所:ヨハネの福音書10章40節~42節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
前回は、宮きよめの祭りでのできごとから学びました。宮きよめの祭り中でユダヤ人たちは、神殿東側の南北に伸びたソロモンの廊を歩いているイエスを取り囲んで、言葉尻を捕らえて陥れて逮捕しようとした。イエスは、ユダヤ人から聞かれるまま、冷静に、かつ大胆に真理を語りました。その結果、ますます両者の間に深い溝ができて、彼らは、石を取り上げてイエスを打とうとしました。しかしイエスは、無事に逃れました。逆算すると、イエスが十字架にかけられる4ヶ月前だが、まだイエスが十字架につけられる時は来ていなかったので、神が守られ、石打を回避できたからです。今日の箇所は、宮きよめの祭りが終わって、エルサレムからペレアに移動します。エルサレムでは、あんなにユダヤ人たちに反対されたのに、ペレアでは、多くの人がイエスを信じました。今日は、エルサレムとペレアでの違いから、イエスへの信仰を妨げる障壁について学び、自らの信仰や、福音宣教に役立てていきたいと思います。
1、イエスはエルサレムを去り、ペレアに行かれた
『そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。』 (10:40) イエスは、エルサレムを去り、ヨルダン川の方向に向かって移動し、ヨルダン川を渡って東側の地域に行きました。そこはペレアという町で、バプテスマのヨハネが最初に活動をはじめた場所ですし、イエスご自身が公生涯をはじめられた場所でもあります。イエスは、公生涯を開始した地に、公生涯を終える前にもう一度帰って来られました。エルサレムとペレアを何かに例えるとしたら、エルサレムは東京の中心地で、ペレアは同じ東京都内でも、山や海に囲まれたド田舎を想像して下さい。
ドブ板活動という言葉があります。選挙で投票してもらうために、候補者や運動員が有権者に会ってお願いするために、田舎からスタートして、都会に向かって民家一軒一軒をまわる活動です。その際に、各家の前に張り巡らされた側溝(ドブ)をふさぐ板をつたって歩き、有権者一人ひとりを訪問したことからドブ板と言われます。イエスは、ペレアからスタートし、ガリラヤに行き、エルサレムに行って、一人ひとりに会って福音を伝え、いやしを行い、弟子としました。まさにドブ板宣教と呼んでも言い過ぎではありません。そのような地道な働きが功を奏したということもできると思います。
しかし、もう一つの理由は、ペレアは、ユダヤの国会にあたるサンヘドリンの支配が及ばない地域でした。中央から相手にされず、隔離された孤独な場所です。イエスは、そんな場所からスタートされ、そんな場所に再び来られました。『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。』 (第一コリント1:26~31) イエスは、今日、私たちのところに来られています。
2、バプテスマのヨハネの宣教の種まき
バプテスマのヨハネは、このペレアの地で活動をスタートし、活動を続けました。『そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」』 (マタイ3:1~2) このヨハネの活動は、旧約聖書で予め預言されていました。『預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。』 (マルコ1:2~4) ヨハネがそのように語ると、『そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。』 (マルコ1:5) とあります。ヨハネの教えを受け入れた人は、ヨハネから洗礼を受けました。しかし、ヨハネの教えには続きがありました。ヨハネ自身ではなく、人々にイエスを紹介しました。『ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。』 (ヨハネ1:26~30) ヨハネの教えの中にイエスご自身が入っていたので、イエスが登場した時に、人々は迷うことなくイエスを信じる決意をしました。
3、多くの人がイエスを信じる
それから時が経ち、人々はイエスについて次のように語りました。『多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。』 (10:41~42) 先ほどのできごとは、ヨハネが活動し、イエスが公生涯をスタートした頃のことですが、この時は何年かが経ち、イエスが十字架にかけられる4ヶ月前のことです。ヨハネの活動は、ヨハネがヘロデ・アンティパスによって殺された後にも、その影響が残っていました。しかも、ヨハネは何のしるしや奇跡を行わなかったにもかかわらずです。聖書の中で、奇跡がたくさん起こったのはごく限られた時期だけです。「奇跡が起こらなければ宣教は進んでいかない」と語る人がいますが、そうではありません。バプテスマのヨハネは、まっすぐに悔い改めとイエスについて語りました。その活動が、後になっても実を結び続けました。人々は、『「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。』 (10:41) とあります。このように、福音宣教は無駄ではありません。一つも地に落ちることはないのです。もう一度、神から与えられた証と伝道活動に献身する決意をさせて頂きましょう。
結論
1、イエスへの信仰を妨げたものは?
ペレアのユダヤ人たちの多くがイエスを信じたのに、エルサレムのユダヤ人たちはなぜイエスを信じなかったのでしょう?
エルサレムには、ユダヤの国会にあたるサンヘドリンの支配下にありました。それはイコール(=)、①パリサイ的ユダヤ教と②口伝律法の影響を強く受けているということです。パリサイ的ユダヤ教の影響は数百年に渡っていました。また、聖書ではない、「先祖たちの言い伝え」である口伝律法が聖書以上に重要視されることがありました。これらが障壁となって、イエスがキリスト(メシア)であることがわからなくなっていました。さらに、③イエスの教えは革新的であり、④古いユダヤ教にあぐらをかいていた人たちには、受け入れ難い内容でした。古いユダヤ教は、「アブラハムの子孫であれば、無条件で神の国に入れる」。つまり、「ユダヤ人だけが神の国に入る」と教えました。しかし、イエスの教えは、これを真っ向から否定しました。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。』 (ヨハネ3:5)「あなたがたも、悔い改めなければ神の国に入れない」と語ったからです。さらに、「異邦人も信仰と恵みによって救われる」と教えました。このイエスの教えは衝撃的でした。その衝撃は怒りに変わり、何度も石打ちにしようとし、最後は十字架で処刑しました。
それに対してペレアは、ユダヤの国会にあたるサンヘドリンの支配が及ばない地域でした。パリサイ的ユダヤ教の影響も最小限でした。だから、ペレアの人々は簡単にイエスを信じることができたのです。エルサレムのユダヤ人たちは、優越感を持ち、高慢になっていました。しかし、ペレアの人たちは、見捨てられた偏狭の地であると考えて劣等感を持っていました。この点においても、イエスを受け入れやすかったに違いありません。先ほど引用した聖句に一度目を留めます。『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。』 (第一コリント1:26~31)
2、私たちの信仰を妨げるものは?
私たちの信仰を妨げるものは、エルサレムに住むユダヤ人たちと同じです。「人間的に優れている」と思う優越意識と高慢です。学問をし、出世し、成功することが悪いのではありません。
パウロは、当時の社会の中ではエリート中のエリートでした。それゆえ高慢になり、イエスを拒否し、イエスを信じる人たちを迫害し、殺すことさえしていました。さらにイエスを信じる者たちを迫害するために、さらに強い権威をもらうために旅をしているその途上でイエスと出会い、イエスに打たれて粉々に砕かれました。『さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」』 (使徒の働き9:1~6) パウロは、イエスに打たれたことでひどい目に遭い、砕かれましたが、これが最も大きな祝福に変わったのです。
私たちが、試練に遭い、低くされて、打ち砕かれた時に、神の罰や呪いを受けていると考える必要はありません。神は、私たちの優越意識と高慢を打ち砕くために打たれることがあります。神に打たれることによって、信仰を妨げているものが取り除かれて、心の底からイエスを信じ、心の底からイエスに頼り、イエスと共に生きていくことができる祝福が与えられます。
3、バプテスマのヨハネのようにイエスの道備えをしよう!
私たちはバプテスマのヨハネではありません。バプテスマのヨハネと違った人に造られ、違った使命が与えられています。しかし、バプテスマのヨハネが、イエスの道備えをし、イエスの宣教をしたように、私たちも、イエスの道備えをし、イエスの証をしていきましょう。イエスを信じた多くの人たちは、『彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。』 (10:41) とあります。誇張したり、恥じて歪曲することなく、イエスが私たちにして下さったことを伝えましょう。①イエスに出会う前の私の人生。②イエスと出会ったきっかけ。③イエスと出会った後の人生について、証できるように祈り、機会を見つけて友人や家族に伝えましょう。その証を通して、あなたは何一つしるしを行なわなかったけれども、あなたがイエスについて話したことはみな真実であった。」と、イエスを信じて救われる人が必ず起こされます。すぐに救われる場合もありますが、バプテスマのヨハネの働きがそうであったように、死んだ後に実を結ぶこともあります。聖書は語ります。『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。』 (第二テモテ4:2~5)
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書10章40節~42節」
10:40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。
10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。
10:42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。
説教題:「イエスへの信仰を妨げる障壁」
聖書箇所:ヨハネの福音書10章40節~42節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
前回は、宮きよめの祭りでのできごとから学びました。宮きよめの祭り中でユダヤ人たちは、神殿東側の南北に伸びたソロモンの廊を歩いているイエスを取り囲んで、言葉尻を捕らえて陥れて逮捕しようとした。イエスは、ユダヤ人から聞かれるまま、冷静に、かつ大胆に真理を語りました。その結果、ますます両者の間に深い溝ができて、彼らは、石を取り上げてイエスを打とうとしました。しかしイエスは、無事に逃れました。逆算すると、イエスが十字架にかけられる4ヶ月前だが、まだイエスが十字架につけられる時は来ていなかったので、神が守られ、石打を回避できたからです。今日の箇所は、宮きよめの祭りが終わって、エルサレムからペレアに移動します。エルサレムでは、あんなにユダヤ人たちに反対されたのに、ペレアでは、多くの人がイエスを信じました。今日は、エルサレムとペレアでの違いから、イエスへの信仰を妨げる障壁について学び、自らの信仰や、福音宣教に役立てていきたいと思います。
1、イエスはエルサレムを去り、ペレアに行かれた
『そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。』 (10:40) イエスは、エルサレムを去り、ヨルダン川の方向に向かって移動し、ヨルダン川を渡って東側の地域に行きました。そこはペレアという町で、バプテスマのヨハネが最初に活動をはじめた場所ですし、イエスご自身が公生涯をはじめられた場所でもあります。イエスは、公生涯を開始した地に、公生涯を終える前にもう一度帰って来られました。エルサレムとペレアを何かに例えるとしたら、エルサレムは東京の中心地で、ペレアは同じ東京都内でも、山や海に囲まれたド田舎を想像して下さい。
ドブ板活動という言葉があります。選挙で投票してもらうために、候補者や運動員が有権者に会ってお願いするために、田舎からスタートして、都会に向かって民家一軒一軒をまわる活動です。その際に、各家の前に張り巡らされた側溝(ドブ)をふさぐ板をつたって歩き、有権者一人ひとりを訪問したことからドブ板と言われます。イエスは、ペレアからスタートし、ガリラヤに行き、エルサレムに行って、一人ひとりに会って福音を伝え、いやしを行い、弟子としました。まさにドブ板宣教と呼んでも言い過ぎではありません。そのような地道な働きが功を奏したということもできると思います。
しかし、もう一つの理由は、ペレアは、ユダヤの国会にあたるサンヘドリンの支配が及ばない地域でした。中央から相手にされず、隔離された孤独な場所です。イエスは、そんな場所からスタートされ、そんな場所に再び来られました。『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。』 (第一コリント1:26~31) イエスは、今日、私たちのところに来られています。
2、バプテスマのヨハネの宣教の種まき
バプテスマのヨハネは、このペレアの地で活動をスタートし、活動を続けました。『そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」』 (マタイ3:1~2) このヨハネの活動は、旧約聖書で予め預言されていました。『預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。』 (マルコ1:2~4) ヨハネがそのように語ると、『そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。』 (マルコ1:5) とあります。ヨハネの教えを受け入れた人は、ヨハネから洗礼を受けました。しかし、ヨハネの教えには続きがありました。ヨハネ自身ではなく、人々にイエスを紹介しました。『ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。』 (ヨハネ1:26~30) ヨハネの教えの中にイエスご自身が入っていたので、イエスが登場した時に、人々は迷うことなくイエスを信じる決意をしました。
3、多くの人がイエスを信じる
それから時が経ち、人々はイエスについて次のように語りました。『多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。』 (10:41~42) 先ほどのできごとは、ヨハネが活動し、イエスが公生涯をスタートした頃のことですが、この時は何年かが経ち、イエスが十字架にかけられる4ヶ月前のことです。ヨハネの活動は、ヨハネがヘロデ・アンティパスによって殺された後にも、その影響が残っていました。しかも、ヨハネは何のしるしや奇跡を行わなかったにもかかわらずです。聖書の中で、奇跡がたくさん起こったのはごく限られた時期だけです。「奇跡が起こらなければ宣教は進んでいかない」と語る人がいますが、そうではありません。バプテスマのヨハネは、まっすぐに悔い改めとイエスについて語りました。その活動が、後になっても実を結び続けました。人々は、『「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。』 (10:41) とあります。このように、福音宣教は無駄ではありません。一つも地に落ちることはないのです。もう一度、神から与えられた証と伝道活動に献身する決意をさせて頂きましょう。
結論
1、イエスへの信仰を妨げたものは?
ペレアのユダヤ人たちの多くがイエスを信じたのに、エルサレムのユダヤ人たちはなぜイエスを信じなかったのでしょう?
エルサレムには、ユダヤの国会にあたるサンヘドリンの支配下にありました。それはイコール(=)、①パリサイ的ユダヤ教と②口伝律法の影響を強く受けているということです。パリサイ的ユダヤ教の影響は数百年に渡っていました。また、聖書ではない、「先祖たちの言い伝え」である口伝律法が聖書以上に重要視されることがありました。これらが障壁となって、イエスがキリスト(メシア)であることがわからなくなっていました。さらに、③イエスの教えは革新的であり、④古いユダヤ教にあぐらをかいていた人たちには、受け入れ難い内容でした。古いユダヤ教は、「アブラハムの子孫であれば、無条件で神の国に入れる」。つまり、「ユダヤ人だけが神の国に入る」と教えました。しかし、イエスの教えは、これを真っ向から否定しました。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。』 (ヨハネ3:5)「あなたがたも、悔い改めなければ神の国に入れない」と語ったからです。さらに、「異邦人も信仰と恵みによって救われる」と教えました。このイエスの教えは衝撃的でした。その衝撃は怒りに変わり、何度も石打ちにしようとし、最後は十字架で処刑しました。
それに対してペレアは、ユダヤの国会にあたるサンヘドリンの支配が及ばない地域でした。パリサイ的ユダヤ教の影響も最小限でした。だから、ペレアの人々は簡単にイエスを信じることができたのです。エルサレムのユダヤ人たちは、優越感を持ち、高慢になっていました。しかし、ペレアの人たちは、見捨てられた偏狭の地であると考えて劣等感を持っていました。この点においても、イエスを受け入れやすかったに違いありません。先ほど引用した聖句に一度目を留めます。『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。』 (第一コリント1:26~31)
2、私たちの信仰を妨げるものは?
私たちの信仰を妨げるものは、エルサレムに住むユダヤ人たちと同じです。「人間的に優れている」と思う優越意識と高慢です。学問をし、出世し、成功することが悪いのではありません。
パウロは、当時の社会の中ではエリート中のエリートでした。それゆえ高慢になり、イエスを拒否し、イエスを信じる人たちを迫害し、殺すことさえしていました。さらにイエスを信じる者たちを迫害するために、さらに強い権威をもらうために旅をしているその途上でイエスと出会い、イエスに打たれて粉々に砕かれました。『さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」』 (使徒の働き9:1~6) パウロは、イエスに打たれたことでひどい目に遭い、砕かれましたが、これが最も大きな祝福に変わったのです。
私たちが、試練に遭い、低くされて、打ち砕かれた時に、神の罰や呪いを受けていると考える必要はありません。神は、私たちの優越意識と高慢を打ち砕くために打たれることがあります。神に打たれることによって、信仰を妨げているものが取り除かれて、心の底からイエスを信じ、心の底からイエスに頼り、イエスと共に生きていくことができる祝福が与えられます。
3、バプテスマのヨハネのようにイエスの道備えをしよう!
私たちはバプテスマのヨハネではありません。バプテスマのヨハネと違った人に造られ、違った使命が与えられています。しかし、バプテスマのヨハネが、イエスの道備えをし、イエスの宣教をしたように、私たちも、イエスの道備えをし、イエスの証をしていきましょう。イエスを信じた多くの人たちは、『彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。』 (10:41) とあります。誇張したり、恥じて歪曲することなく、イエスが私たちにして下さったことを伝えましょう。①イエスに出会う前の私の人生。②イエスと出会ったきっかけ。③イエスと出会った後の人生について、証できるように祈り、機会を見つけて友人や家族に伝えましょう。その証を通して、あなたは何一つしるしを行なわなかったけれども、あなたがイエスについて話したことはみな真実であった。」と、イエスを信じて救われる人が必ず起こされます。すぐに救われる場合もありますが、バプテスマのヨハネの働きがそうであったように、死んだ後に実を結ぶこともあります。聖書は語ります。『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。』 (第二テモテ4:2~5)
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書10章40節~42節」
10:40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。
10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。
10:42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。
2016年10月08日
2016年10月9日 日曜礼拝 説教要約
2016年10月9日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「宮きよめ(光)の祭り(ハヌカ)において」
聖書箇所:ヨハネの福音書10章22節~39節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
エルサレムの宗教指導者たちがイエスを取り囲み、敵対しました。イエスは彼らに答えますが、その結果、両者の間にある溝がますます深まり、指導者たちは、再びイエスに石を投げようとしました。
1、宮きよめの祭りとは
宮きよめの祭りは、ヘブル語で「ハヌカ」と呼びます。宮きよめの祭りは聖書に記されていません。外典のマカバイ記に記されています。イスラエルは、紀元前2世紀頃シリアの支配を受けていました。シリアは占領政策として、徹底してユダヤ教を弾圧し、神殿に汚れた動物とされる豚を捧げ、偶像崇拝を強要し、ユダヤ教の教えに従う者を死刑にすると決めました。シリアの王アンティオコス4世は、自らを現人神と呼び、都に火を放って破壊し、8万人のユダヤ人を殺し、4万人を奴隷、4万人を捕虜としました。この状況に耐えかねたユダヤ教祭司のマカバイは、民を率いて反乱を起こし、3年間の戦いの末に勝利し、神殿を神に再奉献しました。たった一つだけ汚されなかった油の壺が発見され、1日分にも満たない油しか入っていなかったにもかかわらず、8日間燃え続けるという奇跡が起こったことから、ハヌカは、別名「光の祭り」と呼び、8日間祝われます。ハヌカの祭りでは、8枝で9本(9本目は燭台点火用)のろうそくをつけられる燭台を使って、1日1本ずつろうそくに火を灯し、8日目には8本すべてのろうそくに火が灯されます。キリスト教では、クリスマスの4週間前のアドベントに1本ずつろうそくに火を灯す習慣がありますが、冬の寒い日に、心温まる祭りの習慣であり、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」 (第一コリント3:16)とあるように、神の御霊の宿る神殿である人々を、悪魔から解放し、聖め、キリストの光を輝かせる世界の光(マタイ5:14参照)として下さったことを祝うかのようです。
2、状況
ヨハネは、「時は冬であった。」 (10:23)と語り、霊的にも冬であることを暗示し、光であるイエスが、光の祭りに現れたことを語ります。イエスは、ここでご自分のいのちを父なる神に捧げようとしています。
イエスは、神殿の東側に位置し、南北に伸びたソロモンの廊を歩いておられました。エルサレムのユダヤ人の指導者たちはすぐにイエスを見つけて、イエスを取り囲みました。
3、イエスとユダヤ人指導者たちの対立(1)
ユダヤ人の指導者たちは、まるでチンピラが一人を取り囲んで脅かすように、強い決意を見ることができます。『あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。』 (10:24)と質問します。彼らは、イエスが「自分をキリストだ」と言ってないと理解していました。そして、言葉尻を捕らえてイエスを捕らえようとしていました。
イエスは、『イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」』 (10:25~30)と答えました。つまり、「教え」と「わざ」によって、自らがキリストであることは証明済みだと宣言し、次の6つの教えを語りました。①信じない人は、私の羊に属していない。②信じた人は、私の声を聞き分ける。③私は羊を知っている。(イエスと信者は親しい関係にある)④羊は私について来る。⑤羊の永遠のいのちを保証する。⑥羊を私に与えたのは天の父である。そして、『わたしと父とは一つです。』 (30節)と締め括りました。これは、「イエスと天の父が同一人物である」ということではありません。イエスの「私は神である」という宣言なのです。ユダヤ人指導者たちは、それを理解しました。
4、イエスとユダヤ人指導者たちの対立(2)
ユダヤ人たちはイエスの言葉に対して、『イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。』 (10:31)とあります。イエスの語った言葉をはっきり理解したからです。石打ちの理由は、「冒とく罪」ゆえです。レビ記には次のように書かれています。『主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。』 (レビ24:16)少し前の8章59節でも同じようjなことが起こりました。『すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』 (ヨハネ8:59)
イエスは、冷静に聞き返します。『わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。』 (10:32)これまでにイエスは、エルサレムにおいて数多くのいやしの奇跡を行われました。「これらのわざは父なる神から出たわざである。その中のどのわざがあなたがたを怒らせたのか?」と聞きました。
5、イエスとユダヤ人指導者たちの対立(3)
『ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」』 (10:33)ユダヤ人たちは、イエスが安息日にいやしのわざを行ったことを怒っていましたが、それには触れないで、イエスが人間でありながら「私は神である」と宣言したことを問題としています。論点を絞りました。ユダヤ人たちは、あくまで「イエスは人間だ」と決め付けています。これが冒とく罪となるのは、イエスが単なる人間である場合のみです。
イエスは、ユダヤ教のラビとして旧約聖書を引用して語りました。『イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。」』 (10:34)ユダヤ人たちは、自分たちに律法が与えられていることを誇りとしていました。ここでいう「律法」は「旧約聖書全体」を指しますが、「その律法にこう書かれています」と語りました。引用した言葉は、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」』 (詩篇82:6)です。この言葉の内容は、①神が裁き主であることが前提として、②神は、全地を正しく裁くために人間を裁き人として立てた。③裁き人たちは、神の代理で裁きを行う。④その意味において、裁き人たちは「神々(エロヒム)」だ。⑤しかし、裁き人が神性を持っているのではない。
ここで、キリスト教の2つの異端の話をします。一つ目は「エホバの証人」。エホバの証人はイエスが神と同格であることを認めません。二つ目は「モルモン教」です。モルモン教は、イエスを神と認めますが、しかし同時に、「誰でもがんばれば神になれる」と教えます。それを立証するために、この詩篇82篇6節を好んで引用します。
イエスは、引用した詩篇82篇6節を解釈し、適用しました。『もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、「わたしは神の子である。」とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、「神を冒涜している。」と言うのですか。』 (10:35~36)①「聖書は廃棄されるものではない」というのは、イエスの聖書に対する解釈である。『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』 (マタイ5:17) ②神が立てた裁き人がエロヒム(神々)と呼ばれている。③それなのに、父なる神から遣わされた私が、自らを「神の子」と呼んでなぜ冒とくなのか? ④「聖であることを示して」とは、「父のわざを行うために選び分かたれた」という意味。⑤私は、父から直接遣わされてこの地に来たのだ。
イエスは、『もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。』 (10:37~38)と語りました。①私の行ったわざは父のわざである。②私の言葉が信じられなくても、私のわざを信じなさい。③「父がわたしにおられ、わたしが父にいる」と語って、改めて、「私は神であると」宣言。④後にイエスを信じた国会議員のニコデモは、『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。』 (ヨハネ3:2)と語った。
ユダヤ人たちは、『そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。』 (10:39)とあります。ヨハネの福音書には、他に7章30節、32節、44節、8章20節でも同様の内容が書かれている。イエスがどのように逃れたか?は書かれていないが、ユダヤ人指導者たちから逃れた。逃れた理由は、「イエスが十字架につけられる時がまだ来ていないからです。
結論
1、信仰によりイエスの羊となる
『しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。』 (10:26~27)
①ユダヤ人たちはイエスの言葉を信じなかった。
②イエスに心を開いていないので、チンプンカンプンだった。
③ユダヤ人指導者たちは、心が頑なであった。
④本当は、自分から心を開いて聖書に近づく必要がある。
⑤「あなたは人間でありながら、自分を神とする」と語ったが、本当は、「イエスは神でありながら、人間となられた」。
⑥イエスを信じない者は神に属さない。
⑦イエスを信じる者はイエスの声を聞き分ける。
⑧信仰が鍵である。
2、永遠のいのちの保証
『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。』 (10:28~29)
①信じる者には永遠のいのちが与えられる。
②信じる者は決して滅ぼされることはない。
③信じる者はイエスと父なる神に守られる。
④「永遠が保証される」教理は、クリスチャンを堕落させるという人がいるがそうではない。永遠の保証が与えられたゆえに、その愛に応えたいと成長する。
⑤新約聖書に書かれた警告の言葉は、永遠の保証を前提に読むべきでだ。
⑥そうでないと、クリスチャンになって永遠が保証されているにもかかわらず、地獄に行く可能性があると考えて、おびえながら生きていかなくてはいけないことになる。
⑦そういう考え方はわざによる救いであり、福音ではない。異端的教理である。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書10章22節~39節」
10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。
10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
10:36 『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。
10:37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
10:38 しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」
10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。
説教題:「宮きよめ(光)の祭り(ハヌカ)において」
聖書箇所:ヨハネの福音書10章22節~39節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
エルサレムの宗教指導者たちがイエスを取り囲み、敵対しました。イエスは彼らに答えますが、その結果、両者の間にある溝がますます深まり、指導者たちは、再びイエスに石を投げようとしました。
1、宮きよめの祭りとは
宮きよめの祭りは、ヘブル語で「ハヌカ」と呼びます。宮きよめの祭りは聖書に記されていません。外典のマカバイ記に記されています。イスラエルは、紀元前2世紀頃シリアの支配を受けていました。シリアは占領政策として、徹底してユダヤ教を弾圧し、神殿に汚れた動物とされる豚を捧げ、偶像崇拝を強要し、ユダヤ教の教えに従う者を死刑にすると決めました。シリアの王アンティオコス4世は、自らを現人神と呼び、都に火を放って破壊し、8万人のユダヤ人を殺し、4万人を奴隷、4万人を捕虜としました。この状況に耐えかねたユダヤ教祭司のマカバイは、民を率いて反乱を起こし、3年間の戦いの末に勝利し、神殿を神に再奉献しました。たった一つだけ汚されなかった油の壺が発見され、1日分にも満たない油しか入っていなかったにもかかわらず、8日間燃え続けるという奇跡が起こったことから、ハヌカは、別名「光の祭り」と呼び、8日間祝われます。ハヌカの祭りでは、8枝で9本(9本目は燭台点火用)のろうそくをつけられる燭台を使って、1日1本ずつろうそくに火を灯し、8日目には8本すべてのろうそくに火が灯されます。キリスト教では、クリスマスの4週間前のアドベントに1本ずつろうそくに火を灯す習慣がありますが、冬の寒い日に、心温まる祭りの習慣であり、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」 (第一コリント3:16)とあるように、神の御霊の宿る神殿である人々を、悪魔から解放し、聖め、キリストの光を輝かせる世界の光(マタイ5:14参照)として下さったことを祝うかのようです。
2、状況
ヨハネは、「時は冬であった。」 (10:23)と語り、霊的にも冬であることを暗示し、光であるイエスが、光の祭りに現れたことを語ります。イエスは、ここでご自分のいのちを父なる神に捧げようとしています。
イエスは、神殿の東側に位置し、南北に伸びたソロモンの廊を歩いておられました。エルサレムのユダヤ人の指導者たちはすぐにイエスを見つけて、イエスを取り囲みました。
3、イエスとユダヤ人指導者たちの対立(1)
ユダヤ人の指導者たちは、まるでチンピラが一人を取り囲んで脅かすように、強い決意を見ることができます。『あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。』 (10:24)と質問します。彼らは、イエスが「自分をキリストだ」と言ってないと理解していました。そして、言葉尻を捕らえてイエスを捕らえようとしていました。
イエスは、『イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」』 (10:25~30)と答えました。つまり、「教え」と「わざ」によって、自らがキリストであることは証明済みだと宣言し、次の6つの教えを語りました。①信じない人は、私の羊に属していない。②信じた人は、私の声を聞き分ける。③私は羊を知っている。(イエスと信者は親しい関係にある)④羊は私について来る。⑤羊の永遠のいのちを保証する。⑥羊を私に与えたのは天の父である。そして、『わたしと父とは一つです。』 (30節)と締め括りました。これは、「イエスと天の父が同一人物である」ということではありません。イエスの「私は神である」という宣言なのです。ユダヤ人指導者たちは、それを理解しました。
4、イエスとユダヤ人指導者たちの対立(2)
ユダヤ人たちはイエスの言葉に対して、『イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。』 (10:31)とあります。イエスの語った言葉をはっきり理解したからです。石打ちの理由は、「冒とく罪」ゆえです。レビ記には次のように書かれています。『主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。』 (レビ24:16)少し前の8章59節でも同じようjなことが起こりました。『すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』 (ヨハネ8:59)
イエスは、冷静に聞き返します。『わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。』 (10:32)これまでにイエスは、エルサレムにおいて数多くのいやしの奇跡を行われました。「これらのわざは父なる神から出たわざである。その中のどのわざがあなたがたを怒らせたのか?」と聞きました。
5、イエスとユダヤ人指導者たちの対立(3)
『ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」』 (10:33)ユダヤ人たちは、イエスが安息日にいやしのわざを行ったことを怒っていましたが、それには触れないで、イエスが人間でありながら「私は神である」と宣言したことを問題としています。論点を絞りました。ユダヤ人たちは、あくまで「イエスは人間だ」と決め付けています。これが冒とく罪となるのは、イエスが単なる人間である場合のみです。
イエスは、ユダヤ教のラビとして旧約聖書を引用して語りました。『イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。」』 (10:34)ユダヤ人たちは、自分たちに律法が与えられていることを誇りとしていました。ここでいう「律法」は「旧約聖書全体」を指しますが、「その律法にこう書かれています」と語りました。引用した言葉は、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」』 (詩篇82:6)です。この言葉の内容は、①神が裁き主であることが前提として、②神は、全地を正しく裁くために人間を裁き人として立てた。③裁き人たちは、神の代理で裁きを行う。④その意味において、裁き人たちは「神々(エロヒム)」だ。⑤しかし、裁き人が神性を持っているのではない。
ここで、キリスト教の2つの異端の話をします。一つ目は「エホバの証人」。エホバの証人はイエスが神と同格であることを認めません。二つ目は「モルモン教」です。モルモン教は、イエスを神と認めますが、しかし同時に、「誰でもがんばれば神になれる」と教えます。それを立証するために、この詩篇82篇6節を好んで引用します。
イエスは、引用した詩篇82篇6節を解釈し、適用しました。『もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、「わたしは神の子である。」とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、「神を冒涜している。」と言うのですか。』 (10:35~36)①「聖書は廃棄されるものではない」というのは、イエスの聖書に対する解釈である。『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』 (マタイ5:17) ②神が立てた裁き人がエロヒム(神々)と呼ばれている。③それなのに、父なる神から遣わされた私が、自らを「神の子」と呼んでなぜ冒とくなのか? ④「聖であることを示して」とは、「父のわざを行うために選び分かたれた」という意味。⑤私は、父から直接遣わされてこの地に来たのだ。
イエスは、『もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。』 (10:37~38)と語りました。①私の行ったわざは父のわざである。②私の言葉が信じられなくても、私のわざを信じなさい。③「父がわたしにおられ、わたしが父にいる」と語って、改めて、「私は神であると」宣言。④後にイエスを信じた国会議員のニコデモは、『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。』 (ヨハネ3:2)と語った。
ユダヤ人たちは、『そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。』 (10:39)とあります。ヨハネの福音書には、他に7章30節、32節、44節、8章20節でも同様の内容が書かれている。イエスがどのように逃れたか?は書かれていないが、ユダヤ人指導者たちから逃れた。逃れた理由は、「イエスが十字架につけられる時がまだ来ていないからです。
結論
1、信仰によりイエスの羊となる
『しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。』 (10:26~27)
①ユダヤ人たちはイエスの言葉を信じなかった。
②イエスに心を開いていないので、チンプンカンプンだった。
③ユダヤ人指導者たちは、心が頑なであった。
④本当は、自分から心を開いて聖書に近づく必要がある。
⑤「あなたは人間でありながら、自分を神とする」と語ったが、本当は、「イエスは神でありながら、人間となられた」。
⑥イエスを信じない者は神に属さない。
⑦イエスを信じる者はイエスの声を聞き分ける。
⑧信仰が鍵である。
2、永遠のいのちの保証
『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。』 (10:28~29)
①信じる者には永遠のいのちが与えられる。
②信じる者は決して滅ぼされることはない。
③信じる者はイエスと父なる神に守られる。
④「永遠が保証される」教理は、クリスチャンを堕落させるという人がいるがそうではない。永遠の保証が与えられたゆえに、その愛に応えたいと成長する。
⑤新約聖書に書かれた警告の言葉は、永遠の保証を前提に読むべきでだ。
⑥そうでないと、クリスチャンになって永遠が保証されているにもかかわらず、地獄に行く可能性があると考えて、おびえながら生きていかなくてはいけないことになる。
⑦そういう考え方はわざによる救いであり、福音ではない。異端的教理である。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書10章22節~39節」
10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。
10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。
10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」
10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。
10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、
10:36 『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。
10:37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。
10:38 しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」
10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。
2016年10月02日
2016年10月2日 日曜礼拝 説教要約
2016年10月2日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「カルバリーの十字架に隠された宝」
聖書箇所:コリント人への手紙第一1章18節~2章~2節
説教者:菅野直基牧師
初代教会は、文字通り、「十字架につけられたイエス・キリスト」を宣べ伝えていました。しかし、時代が変わり、価値観が変わり、教会は十字架につけられたイエス・キリストではなく、人間イエスを語るようになり、さらに時代が変わり、キリスト教のいい感じの話をするようになってしまいました。これは、この世との妥協であり、教会が力を失った原因です。私たちは、初代教会に立ち返り、イエスの弟子たちが語っていたように、十字架につけられたイエス・キリストを語っていきましょう。
1、なぜ十字架にかけられたキリストを伝えるのでしょう?
最初の人アダムとエバが罪を犯し、罪と罪責の絶望、虚無と無意味の絶望、死と無の絶望に陥ってしまいました。アダムとエバの子孫である私たちも、この絶望から逃れられません。キルケゴールは、「死に至る病とは絶望である」と語りました。聖書は、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(第一コリント15:56)と語ります。私たちは、罪によって死に至る病になっているのです。この病をいやし、解決する方法は、十字架にかけられたキリスト以外にないからです。
2、人は絶対絶望的な存在
世界は混沌としています。人が善なる存在であるとしたら、自衛隊も軍隊も必要がありません。理想や常識は通用しません。聖書は、「今は悪い時代なのである。」(エペソ5:16)語ります。アダムとエバの罪の結果、人は絶望的存在となっているからです。十字架にかけられたキリストが必要です。キリストのもとに行かざるを得ません。今日も、ありのままで十字架にかけられたキリストの前に進み出ていきましょう。
3、カルバリーの十字架に隠された宝
宝が十字架に隠されています。死に至る病から救う道は、政治、経済、科学、宗教、文化、社会などのどこにもありません。①罪の赦しと義認 ②神との和解と聖霊の満たし、③心と体の病のいやし ④呪いと貧しさからの解放、⑤死の撤廃と永遠のいのちがあります。悪魔は、十字架にかけられたキリストから目を反らせようと絶えず目論んでいます。騙されてはいけません。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:10~11)良い牧者であるキリストがいのちを捨てられた十字架にこそ、絶対的な希望の宝が隠されています。キリストの十字架を思い起こし、キリストの十字架を見上げ、キリストの十字架の前に進み出て行くならば、すべての絶望は希望に変わります。
4、十字架の宝が適用される範囲
聖書は、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(第三ヨハネ1:2)と書かれています。ここには、十字架の救いが適用範囲が書かれています。①たましいの領域 ②すべての環境の領域 ③肉体の領域です。十字架は、2000年の時と、エルサレムと東京という空間を超えて、今ここにいる私たちに直接働きます。まず、①私たちの心の中に働いて、つらさ、恐れ、心配、憎しみ、傷等から解放し、希望と平安と幸せを与えてくれます。②十字架は、私たちのすべての環境に働いて、経済の問題、人間関係の問題をはじめ、あらゆる問題を解決し、祝福し、神の御心を実現させて下さいます。③さらに、肉体の病をいやし、健康を与えて下さいます。何という豊かさでしょう。
結論
1、絶対絶望と絶対希望を知る
人は、アダムとエバの罪の結果、死に至る病にかかり、絶対絶望的存在となっている。これを解決するには、キリストの十字架以外にはないことを知ることが必要。これがわからなければ、キリストの十字架が必要だと感じることはできない。
2、まだ救われていない人は、十字架の救いを受けましょう
「キリストが私の罪の身代わりに十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみがえられた」と、信じることによって与えられる。
3、キリストの十字架によって、絶対的な希望が与えられる
①罪の赦しと義認 ②神との和解と聖霊の満たし、③心と体の病のいやし ④呪いと貧しさからの解放、⑤死の撤廃と永遠のいのちが、 ①たましいの領域 ②すべての環境の領域 ③肉体の領域に与えられる。
★今日の聖書箇所 「コリント人への手紙第一1章18節~2章~2節」
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
説教題:「カルバリーの十字架に隠された宝」
聖書箇所:コリント人への手紙第一1章18節~2章~2節
説教者:菅野直基牧師
初代教会は、文字通り、「十字架につけられたイエス・キリスト」を宣べ伝えていました。しかし、時代が変わり、価値観が変わり、教会は十字架につけられたイエス・キリストではなく、人間イエスを語るようになり、さらに時代が変わり、キリスト教のいい感じの話をするようになってしまいました。これは、この世との妥協であり、教会が力を失った原因です。私たちは、初代教会に立ち返り、イエスの弟子たちが語っていたように、十字架につけられたイエス・キリストを語っていきましょう。
1、なぜ十字架にかけられたキリストを伝えるのでしょう?
最初の人アダムとエバが罪を犯し、罪と罪責の絶望、虚無と無意味の絶望、死と無の絶望に陥ってしまいました。アダムとエバの子孫である私たちも、この絶望から逃れられません。キルケゴールは、「死に至る病とは絶望である」と語りました。聖書は、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(第一コリント15:56)と語ります。私たちは、罪によって死に至る病になっているのです。この病をいやし、解決する方法は、十字架にかけられたキリスト以外にないからです。
2、人は絶対絶望的な存在
世界は混沌としています。人が善なる存在であるとしたら、自衛隊も軍隊も必要がありません。理想や常識は通用しません。聖書は、「今は悪い時代なのである。」(エペソ5:16)語ります。アダムとエバの罪の結果、人は絶望的存在となっているからです。十字架にかけられたキリストが必要です。キリストのもとに行かざるを得ません。今日も、ありのままで十字架にかけられたキリストの前に進み出ていきましょう。
3、カルバリーの十字架に隠された宝
宝が十字架に隠されています。死に至る病から救う道は、政治、経済、科学、宗教、文化、社会などのどこにもありません。①罪の赦しと義認 ②神との和解と聖霊の満たし、③心と体の病のいやし ④呪いと貧しさからの解放、⑤死の撤廃と永遠のいのちがあります。悪魔は、十字架にかけられたキリストから目を反らせようと絶えず目論んでいます。騙されてはいけません。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:10~11)良い牧者であるキリストがいのちを捨てられた十字架にこそ、絶対的な希望の宝が隠されています。キリストの十字架を思い起こし、キリストの十字架を見上げ、キリストの十字架の前に進み出て行くならば、すべての絶望は希望に変わります。
4、十字架の宝が適用される範囲
聖書は、「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」(第三ヨハネ1:2)と書かれています。ここには、十字架の救いが適用範囲が書かれています。①たましいの領域 ②すべての環境の領域 ③肉体の領域です。十字架は、2000年の時と、エルサレムと東京という空間を超えて、今ここにいる私たちに直接働きます。まず、①私たちの心の中に働いて、つらさ、恐れ、心配、憎しみ、傷等から解放し、希望と平安と幸せを与えてくれます。②十字架は、私たちのすべての環境に働いて、経済の問題、人間関係の問題をはじめ、あらゆる問題を解決し、祝福し、神の御心を実現させて下さいます。③さらに、肉体の病をいやし、健康を与えて下さいます。何という豊かさでしょう。
結論
1、絶対絶望と絶対希望を知る
人は、アダムとエバの罪の結果、死に至る病にかかり、絶対絶望的存在となっている。これを解決するには、キリストの十字架以外にはないことを知ることが必要。これがわからなければ、キリストの十字架が必要だと感じることはできない。
2、まだ救われていない人は、十字架の救いを受けましょう
「キリストが私の罪の身代わりに十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみがえられた」と、信じることによって与えられる。
3、キリストの十字架によって、絶対的な希望が与えられる
①罪の赦しと義認 ②神との和解と聖霊の満たし、③心と体の病のいやし ④呪いと貧しさからの解放、⑤死の撤廃と永遠のいのちが、 ①たましいの領域 ②すべての環境の領域 ③肉体の領域に与えられる。
★今日の聖書箇所 「コリント人への手紙第一1章18節~2章~2節」
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2016年09月25日
2016年9月25日 教会創立15周年記念礼拝 説教要約
2016年9月25日 教会創立15周年記念礼拝 説教要約
説教題:「これからの新宿福興教会」
聖書箇所:コリント人への手紙第一11章17節~34節
説教者:菅野直基牧師
私たちの新宿福興教会は創立15周年を迎えました。振り返ってみると、数々のエピソードがあったことを思い出します。2001年の4月に、母教会の大森福興教会で牧師の按手礼と新宿の地での開拓伝道の任命を受けて、準備をはじめました。新宿駅周辺、新宿のビル街、新宿の繁華街、職安通りや大久保通り周辺などのテンポやビルの一室を訪問して、「日曜日だけ、無料か安価で場所を貸して頂けないでしょうか?」とお願いしてまわりました。その中から、3箇所で「教会に場所を貸しましょう」という連絡が入りました。1箇所は、住宅地で入り組んだ場所だったため、教会にあまりふさわしくないと判断し、丁重にお断りしました。残る2箇所の1つ目は、大久保駅前のカラオケ喫茶「パラダイス」です。2つ目は、西新宿にあるストークマンションの一室です。駅前とオフィス街では、全く違う環境であるため、教会に全く違った層の人たちが来られることを期待して、2箇所で教会をはじめることにしました。朝10時半からは、大久保駅前のカラオケ喫茶で礼拝を行い、参加者の皆さんと昼食を共にしてから閉会し、3時頃に西新宿のストークマンションに移動して、夕方4時半から礼拝を開始しました。ストークマンションの部屋の借主は中国人女性で、その場所で会社を経営していました。しかし、問題がありました。数多くの偶像がその場所に置かれていていました。私は、「イエス様だけが救い主です。悔い改めて立ち返りましょう!」と、毎回の説教で語りました。参加者からの反発もありましたが、ついにこの女性も耐え切れなくなったのでしょう。「もうこれ以上教会に場所を貸すことはできません」と言って来られました。よく考えてみれば、大久保駅前のカラオケ喫茶は、日曜日丸一日借りることができるのです。西新宿は閉鎖し、大久保一本で教会を建てていこうと決意しました。毎日仕事をしながら、必死に伝道をしました。伝道をし過ぎたのが原因だと思いますが、大家さんがカラオケ喫茶のママさんに、「教会に無断で場所をまた貸しした」と、裁判所に訴えて、カラオケ喫茶は場所を追われてしまいました。後日ママさんは、洗礼を受けられましたので、不幸中の幸いでしたが、繁盛していたカラオケ喫茶を閉鎖せざるを得なくなってしまったことに対して申し訳なく思いましたが、問題は、光熱費とはいえ、一回500円を支払っていましたので、ルール違反なので仕方がありませんでした。教会は、半年も経たないうちに場所を失いました。真冬なのに公園で礼拝をするしかない状況の中、土曜日の夜、友人の教会に訪問したら、「しばらく私の教会の場所を使っていいですよ」と言ってくれました。しっかり場所代の献金はしていましたが、3ヶ月後の3月最後の日曜日に、「今日で出て行って下さい」と言われました。十数人の信者一同で、「神様、教会の場所を与えて下さい!」と必死に祈りました。翌日、教会員の1人が、ここの場所の物件のチラシをFAXで送ってくれました。「キリスト教会に場所を貸したい」という希望が書かれていましたので、ぴったりだと思って、その場で電話をし、この場所に来て大家さん夫婦に会いました。話がまとまり、すぐに契約することになりましたが、住居ではないため、家賃+半年分の敷金を要求されました。引越し代金を支払うと、教会の銀行口座はほぼ0になりました。神様に感謝すると同時に、これから先が心配になりました。しかし、「前だけを見て行こう!」と決意し、福音派の団体から3年間支援を受けることになり、同時にアルバイトを辞めました。「一切の仕事をしてはいけない!」というのが、支援の条件だったからです。しかし、そのような状況に追い込まれなければ、ずっとアルバイトをし続けて教会の活動が片手間になってしまったのではないかと思います。開拓伝道開始から約半年後に、この場所に教会を移転し、それから教会の活動を継続しています。当初は、伝道チラシのポスティング、大久保駅前での路傍伝道、インターネット伝道の3本柱で活動を続けて来ました。しばらくすると、友人の一家が転籍して来られた。また、韓国の宣教師が協力してくれるようになりました。一時はかなりの勢いで教会が成長しましたが、教会員の多くが外国人留学生だったこともあり、その翌年にはいなくなってしまいました。また、教会を探している日本人が来られても、バス停でバスを待つように、良い教会が見つかるまでのつなぎにする人もかなりいました。ザルで水をすくうような感じがしました。それでも、前に向かって行くしかありません。牧師である私の力不足でもありますが、開拓伝道の難しさを嫌と言うほど感じて来ました。その中で、牧師が教会活動をする上で必要なすべてのことを学ばせて頂いたと思います。15年を振り返ってみると、一日では語りつくせないほどの数多くのできごとを経験してきました。時代や価値観も大きく変わりました。9.11の同時多発テロ、リーマンショック、民主党の政権交代、自民党の政権奪還、3.11の東日本大震災、熊本地震、IS問題など、私たちを取り巻く環境は大きく変わりました。教会に来られる人も入れ替わりました。聖書の福音は変わりませんが、同時に、教会は変わり続ける必要があります。変わらない、変わってはいけないことと、絶えず変わり続けなければいけない、変わらないもの、変わるものという2つの相反することに挟まれながらも、前進して行かなければなりません。共に天国を目指しながら、その途上の旅を一緒にして行きましょう。
1、時代のニーズにこたえる教会となる
今もお話しましたが、教会を創立してから15周年が経過し、様々な変化が起こりました。しかし、神様とキリストの体である教会は、何が変わっても変わらない普遍的な部分を持っています。私たちは、「神によって造られ、神によって救われ、神によって生かされ、神の元に帰って行き」ます。その人生の中で、変わらないものがあるからこそ、変わることができるのです。教会は2000年間、変えてはいけないものをしっかりと守って来ました。その点は本当に感謝すべきです。しかし、変わっていいし、むしろ変わるべきだったのに、日本に福音が伝えられた後、あまり変わって来なかった歴史があります。最初、エルサレムで誕生した教会は、欧米を経由して、欧米化した教会がそのまま日本に伝えられ、日本の文化や時代のニーズにあまり合わせないで建て上げられて来ました。これからは、欧米化した、バター臭い、外国の宗教と日本人が考えるキリスト教の教会を建て続けて行くのではなく、初代教会に立ち返って、そこから、日本に合う教会を建て上げて行かなければなりません。そして、今の時代のニーズに合った教会を建てて行きましょう。そのために、日本の社会の中にいるクリスチャンだけではなく、未信者の生活に関心を持ち、耳を傾け、面倒を見ながらニーズを知ることです。そうしたら、ニーズを満たすことができます。パウロが伝道をしたコリントの教会のニーズの一つは飲食でした。聖餐式のパンでお腹を満たし、聖餐式のワインで酔っ払う人が出ていましたので、「互いに待ち合わせをして、家で食事をしなさい」とパウロが指導しました。教会には、礼拝堂と共に、家の教会がありました。コリントの教会は、その家の教会で、飲食のニーズを満たしていました。私たちの教会は、この礼拝をする場所ですが、同時に、私たち信者の家がもう一つの教会です。そこに、友達などの未信者を招き、集まり、互いに面倒を見合い、ニーズを満たし合って、日曜日に、この礼拝堂のある教会に集まるのです。教会が、この礼拝堂だけだとしたら、すべてのニーズを満たすことはできません。一人一人のニーズは違うし、一緒に集まった時には、礼拝をし、学びをするだけで精一杯です。欧米型の教会は、礼拝堂中心の教会でした。ローマが国教化してからは、その一途をたどり続けました。ルーテル、ツィングリー、ウェスレーの宗教改革でも家の教会は回復しませんでした。しかし、私たちが、欧米型の教会に追従するのではなく、初代教会に追従し、今の時代のニーズにこたえる教会を担って行くためには、家の教会が回復しなければなりません。会堂中心の教会なら、日曜日だけのクリスチャンであることが可能でしたが、会堂と家の二つの教会となったら、キリストの弟子となり、献身し、毎日毎日をクリスチャンとして歩まなかったらそれは不可能です。共に、時代のニーズにこたえる教会を共に建て上げて行きましょう。礼拝がダイナミックで生き生きした教会、家の教会で互いに面倒を見合い、互いのニーズを満たし、支え合う教会になってこそ、人々は証人として成長し、建て上げられて行くのです。共に力を合わせて教会を建て上げて行きましょう。
2、教会堂で行うこと
コリントの教会では、会堂に集まって礼拝を捧げ、聖餐式を行っていました。ルーテルの宗教改革によってプロテスタント教会が始まった時、カトリック的なものの多くを排除しました。もちろん、今でも、マリヤの偶像化は受け入れられませんし、いくつもの相違点があります。しかし、聖餐式の恵みと意義をプロテスタントは失ってしまいました。ある教会は、全く聖餐式を行いません。またある教会は年に一度聖餐式を行います。ある教会は月に一度聖餐式を行います。しかし、初代教会もコリントの教会も、集まるたびに聖餐式を行っていました。私たちの教会は、初期の頃から、毎週聖餐式を行って来ました。当初は、月初にだけ行いましたが、聖餐式が、初代教会で毎週行われていたことに気づいてからは、聖餐式を回復させました。多くの方が、この教会に来られて、「なぜ聖餐式を毎週行うのですか?」と質問して下さいました。答えはいつも同じです。初代教会が聖餐式を集まるたびに行っていたからです。教会は、初代教会に帰って、そこから建て上げて行かなければなりません。みなさん、聖餐式は毎週行いますが、毎週、新たな感動を持って、キリストの体と血とを頂いて下さい。そこに命があります。また、初代教会は、礼拝が生きていました。今の多くの教会のように、儀式的で、お葬式のような教会とは全く違います。生きている神様を礼拝し、神様にお会いし、そこで讃美し、祈り、御言葉を頂き、それに応答し、献金を捧げ、聖徒たちが霊の交わりをしました。教会は、キリスト・クラブに成り下がってはいけません。生きておられる神様を中心に、霊の交わり、御言葉と聖霊の交わりをしましょう。世の中のことや、あちらこちらの教会の話しや、愚にも付かないような噂話、争い、批判のような話をしないで、主が中心におられる交わりをして行きましょう。せっかく礼拝で恵まれたのに、礼拝が終わったら、仕事の話や毎日の生活の話に切り替わってしまったら、恵みが一瞬にして失われてしまいます。今までは、仕事や毎日の生活の話を礼拝後にする傾向がありましたが、これからは必要最小限にとどめ、聖書と聖霊様を中心に、聖徒の交わりをして行きましょう。教会では、教会でしか行えないことをしましょう。
3、互いに愛し合う
コリントの教会の一つの問題に自己中心がありました。「自分さえよければ良い」という考え方が蔓延していました。自己中心を捨てて、神中心を求めて行きましょう。パウロは17節で、「集会が害になっている」「分派がある」と指摘しています。しかしそれは、「あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。」(コリント第一11:19)と言っています。つまり、「振るいにかけられている」というのです。私たちが、「神中心」を求めて教会生活をしていたら、自己中心で、神を本当は信じていないニセモノと分派が起こるのです。しかし、ニセモノは振るわれて排除されるべきなのではなく、悔い改めて回復すべきなのです。イエス様は、イスカリオテのユダに対して、繰り返し悔い改めのチャンスを与え、決して人の前で間違いを指摘しないで、本人にだけわかる方法で諭し続けました。私たちが「神中心」を求めていたら、「自己中心」な人が明確に見えて来ます。その人は、知識はたくさんあるかも知れませんが、実態は、自分のために神を利用している人に過ぎません。そして、神様に利用価値を見出せなくなったら、イスカリオテのユダのように神に反逆して教会を離れる人です。しかし、そうならないように祈って行きましょう。イエス様は、「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44)と教えられました。教会員同士は敵ではありません。互いに家族です。家族は面倒見合い、支え合い、新しい家族を生み出す共同体です。コリントの教会には、「弱者、病人、死者まで出た」とありますが、私たちの教会は、人をいやし、生かす教会でありますように。
「本日の聖書箇所」 新約聖書 コリント人への手紙 第一 11章17節~34節
17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。
説教題:「これからの新宿福興教会」
聖書箇所:コリント人への手紙第一11章17節~34節
説教者:菅野直基牧師
私たちの新宿福興教会は創立15周年を迎えました。振り返ってみると、数々のエピソードがあったことを思い出します。2001年の4月に、母教会の大森福興教会で牧師の按手礼と新宿の地での開拓伝道の任命を受けて、準備をはじめました。新宿駅周辺、新宿のビル街、新宿の繁華街、職安通りや大久保通り周辺などのテンポやビルの一室を訪問して、「日曜日だけ、無料か安価で場所を貸して頂けないでしょうか?」とお願いしてまわりました。その中から、3箇所で「教会に場所を貸しましょう」という連絡が入りました。1箇所は、住宅地で入り組んだ場所だったため、教会にあまりふさわしくないと判断し、丁重にお断りしました。残る2箇所の1つ目は、大久保駅前のカラオケ喫茶「パラダイス」です。2つ目は、西新宿にあるストークマンションの一室です。駅前とオフィス街では、全く違う環境であるため、教会に全く違った層の人たちが来られることを期待して、2箇所で教会をはじめることにしました。朝10時半からは、大久保駅前のカラオケ喫茶で礼拝を行い、参加者の皆さんと昼食を共にしてから閉会し、3時頃に西新宿のストークマンションに移動して、夕方4時半から礼拝を開始しました。ストークマンションの部屋の借主は中国人女性で、その場所で会社を経営していました。しかし、問題がありました。数多くの偶像がその場所に置かれていていました。私は、「イエス様だけが救い主です。悔い改めて立ち返りましょう!」と、毎回の説教で語りました。参加者からの反発もありましたが、ついにこの女性も耐え切れなくなったのでしょう。「もうこれ以上教会に場所を貸すことはできません」と言って来られました。よく考えてみれば、大久保駅前のカラオケ喫茶は、日曜日丸一日借りることができるのです。西新宿は閉鎖し、大久保一本で教会を建てていこうと決意しました。毎日仕事をしながら、必死に伝道をしました。伝道をし過ぎたのが原因だと思いますが、大家さんがカラオケ喫茶のママさんに、「教会に無断で場所をまた貸しした」と、裁判所に訴えて、カラオケ喫茶は場所を追われてしまいました。後日ママさんは、洗礼を受けられましたので、不幸中の幸いでしたが、繁盛していたカラオケ喫茶を閉鎖せざるを得なくなってしまったことに対して申し訳なく思いましたが、問題は、光熱費とはいえ、一回500円を支払っていましたので、ルール違反なので仕方がありませんでした。教会は、半年も経たないうちに場所を失いました。真冬なのに公園で礼拝をするしかない状況の中、土曜日の夜、友人の教会に訪問したら、「しばらく私の教会の場所を使っていいですよ」と言ってくれました。しっかり場所代の献金はしていましたが、3ヶ月後の3月最後の日曜日に、「今日で出て行って下さい」と言われました。十数人の信者一同で、「神様、教会の場所を与えて下さい!」と必死に祈りました。翌日、教会員の1人が、ここの場所の物件のチラシをFAXで送ってくれました。「キリスト教会に場所を貸したい」という希望が書かれていましたので、ぴったりだと思って、その場で電話をし、この場所に来て大家さん夫婦に会いました。話がまとまり、すぐに契約することになりましたが、住居ではないため、家賃+半年分の敷金を要求されました。引越し代金を支払うと、教会の銀行口座はほぼ0になりました。神様に感謝すると同時に、これから先が心配になりました。しかし、「前だけを見て行こう!」と決意し、福音派の団体から3年間支援を受けることになり、同時にアルバイトを辞めました。「一切の仕事をしてはいけない!」というのが、支援の条件だったからです。しかし、そのような状況に追い込まれなければ、ずっとアルバイトをし続けて教会の活動が片手間になってしまったのではないかと思います。開拓伝道開始から約半年後に、この場所に教会を移転し、それから教会の活動を継続しています。当初は、伝道チラシのポスティング、大久保駅前での路傍伝道、インターネット伝道の3本柱で活動を続けて来ました。しばらくすると、友人の一家が転籍して来られた。また、韓国の宣教師が協力してくれるようになりました。一時はかなりの勢いで教会が成長しましたが、教会員の多くが外国人留学生だったこともあり、その翌年にはいなくなってしまいました。また、教会を探している日本人が来られても、バス停でバスを待つように、良い教会が見つかるまでのつなぎにする人もかなりいました。ザルで水をすくうような感じがしました。それでも、前に向かって行くしかありません。牧師である私の力不足でもありますが、開拓伝道の難しさを嫌と言うほど感じて来ました。その中で、牧師が教会活動をする上で必要なすべてのことを学ばせて頂いたと思います。15年を振り返ってみると、一日では語りつくせないほどの数多くのできごとを経験してきました。時代や価値観も大きく変わりました。9.11の同時多発テロ、リーマンショック、民主党の政権交代、自民党の政権奪還、3.11の東日本大震災、熊本地震、IS問題など、私たちを取り巻く環境は大きく変わりました。教会に来られる人も入れ替わりました。聖書の福音は変わりませんが、同時に、教会は変わり続ける必要があります。変わらない、変わってはいけないことと、絶えず変わり続けなければいけない、変わらないもの、変わるものという2つの相反することに挟まれながらも、前進して行かなければなりません。共に天国を目指しながら、その途上の旅を一緒にして行きましょう。
1、時代のニーズにこたえる教会となる
今もお話しましたが、教会を創立してから15周年が経過し、様々な変化が起こりました。しかし、神様とキリストの体である教会は、何が変わっても変わらない普遍的な部分を持っています。私たちは、「神によって造られ、神によって救われ、神によって生かされ、神の元に帰って行き」ます。その人生の中で、変わらないものがあるからこそ、変わることができるのです。教会は2000年間、変えてはいけないものをしっかりと守って来ました。その点は本当に感謝すべきです。しかし、変わっていいし、むしろ変わるべきだったのに、日本に福音が伝えられた後、あまり変わって来なかった歴史があります。最初、エルサレムで誕生した教会は、欧米を経由して、欧米化した教会がそのまま日本に伝えられ、日本の文化や時代のニーズにあまり合わせないで建て上げられて来ました。これからは、欧米化した、バター臭い、外国の宗教と日本人が考えるキリスト教の教会を建て続けて行くのではなく、初代教会に立ち返って、そこから、日本に合う教会を建て上げて行かなければなりません。そして、今の時代のニーズに合った教会を建てて行きましょう。そのために、日本の社会の中にいるクリスチャンだけではなく、未信者の生活に関心を持ち、耳を傾け、面倒を見ながらニーズを知ることです。そうしたら、ニーズを満たすことができます。パウロが伝道をしたコリントの教会のニーズの一つは飲食でした。聖餐式のパンでお腹を満たし、聖餐式のワインで酔っ払う人が出ていましたので、「互いに待ち合わせをして、家で食事をしなさい」とパウロが指導しました。教会には、礼拝堂と共に、家の教会がありました。コリントの教会は、その家の教会で、飲食のニーズを満たしていました。私たちの教会は、この礼拝をする場所ですが、同時に、私たち信者の家がもう一つの教会です。そこに、友達などの未信者を招き、集まり、互いに面倒を見合い、ニーズを満たし合って、日曜日に、この礼拝堂のある教会に集まるのです。教会が、この礼拝堂だけだとしたら、すべてのニーズを満たすことはできません。一人一人のニーズは違うし、一緒に集まった時には、礼拝をし、学びをするだけで精一杯です。欧米型の教会は、礼拝堂中心の教会でした。ローマが国教化してからは、その一途をたどり続けました。ルーテル、ツィングリー、ウェスレーの宗教改革でも家の教会は回復しませんでした。しかし、私たちが、欧米型の教会に追従するのではなく、初代教会に追従し、今の時代のニーズにこたえる教会を担って行くためには、家の教会が回復しなければなりません。会堂中心の教会なら、日曜日だけのクリスチャンであることが可能でしたが、会堂と家の二つの教会となったら、キリストの弟子となり、献身し、毎日毎日をクリスチャンとして歩まなかったらそれは不可能です。共に、時代のニーズにこたえる教会を共に建て上げて行きましょう。礼拝がダイナミックで生き生きした教会、家の教会で互いに面倒を見合い、互いのニーズを満たし、支え合う教会になってこそ、人々は証人として成長し、建て上げられて行くのです。共に力を合わせて教会を建て上げて行きましょう。
2、教会堂で行うこと
コリントの教会では、会堂に集まって礼拝を捧げ、聖餐式を行っていました。ルーテルの宗教改革によってプロテスタント教会が始まった時、カトリック的なものの多くを排除しました。もちろん、今でも、マリヤの偶像化は受け入れられませんし、いくつもの相違点があります。しかし、聖餐式の恵みと意義をプロテスタントは失ってしまいました。ある教会は、全く聖餐式を行いません。またある教会は年に一度聖餐式を行います。ある教会は月に一度聖餐式を行います。しかし、初代教会もコリントの教会も、集まるたびに聖餐式を行っていました。私たちの教会は、初期の頃から、毎週聖餐式を行って来ました。当初は、月初にだけ行いましたが、聖餐式が、初代教会で毎週行われていたことに気づいてからは、聖餐式を回復させました。多くの方が、この教会に来られて、「なぜ聖餐式を毎週行うのですか?」と質問して下さいました。答えはいつも同じです。初代教会が聖餐式を集まるたびに行っていたからです。教会は、初代教会に帰って、そこから建て上げて行かなければなりません。みなさん、聖餐式は毎週行いますが、毎週、新たな感動を持って、キリストの体と血とを頂いて下さい。そこに命があります。また、初代教会は、礼拝が生きていました。今の多くの教会のように、儀式的で、お葬式のような教会とは全く違います。生きている神様を礼拝し、神様にお会いし、そこで讃美し、祈り、御言葉を頂き、それに応答し、献金を捧げ、聖徒たちが霊の交わりをしました。教会は、キリスト・クラブに成り下がってはいけません。生きておられる神様を中心に、霊の交わり、御言葉と聖霊の交わりをしましょう。世の中のことや、あちらこちらの教会の話しや、愚にも付かないような噂話、争い、批判のような話をしないで、主が中心におられる交わりをして行きましょう。せっかく礼拝で恵まれたのに、礼拝が終わったら、仕事の話や毎日の生活の話に切り替わってしまったら、恵みが一瞬にして失われてしまいます。今までは、仕事や毎日の生活の話を礼拝後にする傾向がありましたが、これからは必要最小限にとどめ、聖書と聖霊様を中心に、聖徒の交わりをして行きましょう。教会では、教会でしか行えないことをしましょう。
3、互いに愛し合う
コリントの教会の一つの問題に自己中心がありました。「自分さえよければ良い」という考え方が蔓延していました。自己中心を捨てて、神中心を求めて行きましょう。パウロは17節で、「集会が害になっている」「分派がある」と指摘しています。しかしそれは、「あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。」(コリント第一11:19)と言っています。つまり、「振るいにかけられている」というのです。私たちが、「神中心」を求めて教会生活をしていたら、自己中心で、神を本当は信じていないニセモノと分派が起こるのです。しかし、ニセモノは振るわれて排除されるべきなのではなく、悔い改めて回復すべきなのです。イエス様は、イスカリオテのユダに対して、繰り返し悔い改めのチャンスを与え、決して人の前で間違いを指摘しないで、本人にだけわかる方法で諭し続けました。私たちが「神中心」を求めていたら、「自己中心」な人が明確に見えて来ます。その人は、知識はたくさんあるかも知れませんが、実態は、自分のために神を利用している人に過ぎません。そして、神様に利用価値を見出せなくなったら、イスカリオテのユダのように神に反逆して教会を離れる人です。しかし、そうならないように祈って行きましょう。イエス様は、「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43~44)と教えられました。教会員同士は敵ではありません。互いに家族です。家族は面倒見合い、支え合い、新しい家族を生み出す共同体です。コリントの教会には、「弱者、病人、死者まで出た」とありますが、私たちの教会は、人をいやし、生かす教会でありますように。
「本日の聖書箇所」 新約聖書 コリント人への手紙 第一 11章17節~34節
17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。
2016年09月25日
2016年9月18日 敬老感謝礼拝 説教要約
2016年9月18日 敬老感謝礼拝 説教要約
説教題:「信仰の先輩たちが与えてくれた教訓」
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章1節~12節
説教者:菅野直基牧師
今日は、明日の敬老の日を覚えて敬老感謝礼拝を捧げます。敬老とは、年を取った人を敬うという意味です。聖書は、「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ記19:32)と語ります。しかしこれは、儒教的な意味の道徳律ではなく、聖書が教える愛の具体的な形です。目の上の人を尊敬し、大切にすることは、愛するなら当然起こって来ることです。目上の人に対する愛を思い起こす日となったら幸いです。次に聖書は、年配者たちが残し、与えてくれた教訓を大切にするように教えます。パウロは、信仰の先輩たちの生き方とその末路を示して、その歴史を教訓としなさい。そして、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント第一10:12)と、コリントの教会の一人一人に勧めました。この言葉は、新宿福興教会に私たち一人一人に向かっても語られた言葉であると受け止めましょう。
1、信仰の先輩たちの通った道
聖書は、信仰の先輩たちが通って来た道を語ります。これは、私たちも通る道です。「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(コリント第一10:1~4)ここで、「雲」は「聖霊」を表し、「海」は「洗礼の水」を表します。また、「御霊の食べ物」は「天から下って来たマナ(食べ物)」の事で、「御霊の飲み物」は「飲料水」です。神は、一人の人「アブラハム」を選び、アブラハムから「イスラエルの民」を造られました。イスラエルの民は、ヨセフの時代からエジプトに移り住み、ヨセフが死んでからはエジプトで奴隷生活を強いられました。イスラエルが、「神様、奴隷の生活から救い出して解放して下さい」と祈ると、神は、「モーセ」を選んで、イスラエルをエジプトから解放するために立てられました。イスラエルの民は、モーセを先頭にエジプトから脱出しました。これを「出エジプト(ヘブライ語: שמות、英語: Exodus)」と言います。まず、モーセが杖を天に向かって差し伸べると、紅海が真っ二つに割れて、そこにできた道を通って、エジプトの地を後にしました。その時、イスラエルの民は、水しぶきを受けました。洗礼を象徴しました。また、モーセより先に、昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」がイスラエルを導きました。聖霊様でした。紅海を渡った先にあった地は荒野でした。荒野は昼暑く、夜寒いのです。昼間は、雲の柱が直射日光をさえぎり、夜は、同じ雲の柱が火の柱となって、凍えるような寒さを暖めてくれました。また、荒野には、命も、食べ物も、飲み物もありませんが、神様は、天からマナを降らせ、岩から水を出させて、イスラエルが餓えて死なないように食べ物と飲み物を与えてくれました。みなさん、信仰の先輩たちが通った道は、私たちも通る道です。「雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」とは、私たちが、イエス様を信じた時に、イスラエルがモーセをついて出エジプトをしたように、イエス様について罪の奴隷の生活から脱出し、また、イスラエルが「雲」と「海」でモーセにつくバプテスマを受けたように、「聖霊と火のバプテスマ」と「水の洗礼」を象徴するイエスのつくバプテスマを受けてクリスチャンになります。さらに、御霊の食べ物が象徴する「聖書の言葉」と御霊の飲み物が象徴する「聖霊の水」を飲みながらクリスチャン生活を送ります。この世の荒野がどんなに厳しい環境でも、霊的に死ぬ事がありません。聖書は、「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下に新しいものは一つもない。」(伝道者の書1:9)とありますが、信仰の先輩たちが通って来た道を、私たちも通っているのです。私たちの信仰は新興宗教ではなく、数千年の歴史があるものなのです。その道を共に歩んでいきましょう。
2、信仰の先輩たちの通った道とその末路
イスラエルの民が出エジプトし、荒野を通って、約束の地「カナン」を目指して旅を始めました。私たちに取っては、天国を目指しての旅である毎日のクリスチャン生活です。もし、聖書が宗教書であるならば、信仰の先輩たちの「成功例」を語り、「同じ道を歩みなさい」と締め括ったことでしょう。しかし、聖書は宗教書ではなく、神の言葉です。人間のありのままの姿を語っています。そこには、ありのままの姿を否定しないで、受け入れ、赦し、愛しておられる神の心がよく現されています。神は、私たちのことも、ありのままの姿を否定せずに受け入れ、赦し、愛して下さっています。神の愛は、罪や失敗を水に流しているのではなく、罪の刑罰を一人子イエス・キリストが十字架で身代わりに引き受け、墓に葬られ、三日目によみがえられたので与えられています。神は、いつの時代も愛の神です。しかし、義の神でもあり、赦しと同時に、私たちが成長し、祝福されたクリスチャン・ライフと天国への道を歩むことを願っておられます。信仰の先輩たちが失敗した「失敗例」を指し示し、戒めとし、教訓としなさいと教えます。イスラエルは、良いスタートを切りました。しかし、途中から道を踏み外してしまったのです。私たちクリスチャンも、良い信仰生活のスタートを切ったのに、途中から道を踏み外し、迷って信仰を捨ててしまう可能性があります。イスラエルが道を踏み外したのは、3つの罪でした。①「偶像崇拝」 ②「姦淫」 ③「不信仰」と「不従順」です。そして、その末路は、「神の裁き」と「蛇の毒」によって滅ぼされてしまいました。クリスチャンが陥りやすい具体的な罪は、「偶像崇拝」と「姦淫」です。偶像崇拝は、神でないものを拝んだり、神よりも大切なものを持つことです。姦淫とは、結婚した人が行う「性的不道徳」です。未婚の人が同じ事を行った場合は「不品行」と言います。イスラエルの民が姦淫を行った時に、一日に23000人もの人に神の裁きが下って死にました。このできごとは、イエス・キリストの十字架以前だから、厳しい裁きが下ったと言えるかも知れませんが、クリスチャンになってからも、性的な不道徳を行い続けるならば、死ぬ事ではないにせよ、何らかの形で神の裁きが下る可能性があることを知って下さい。そして、不信仰と不従順は、「蛇」を象徴する「悪魔」によって圧迫され、喜びと力を失い、神から離れて、罪と悪魔の奴隷とされてしまいます。みなさん、神様は、いつも今、救いと回復のチャンスを与えて下さっています。『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(コリント第二6:2)また、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』(ヘブル4:7)と書かれています。信仰の先輩の末路を見て、同じ道を歩まず、悔い改めて、聖書の言葉と神様に従って歩んで行きましょう。初代ドイツ帝国宰相のオットー・フォン・ビスマルク(1815年 ~1898年)は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」と語りましたが、失敗して、痛い目に遭ってから真剣に悔い改めるのもいいですが、痛い目に遭う前に、今日、今、信仰の先輩たちの末路から教訓として学び、生きて参りましょう。
3、立っていると思う者は、倒れないように気をつけましょう
聖書は、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント第一10:12)と語ります。どうぞ、「私は大丈夫!」と思っている人は気をつけて下さい。また、「私は弱いので不安です!?」と思っている人はもっと気をつけて下さい。つまり、誰もが気をつけないと、気がついたら罪に陥り、滅びに向かう道を歩み始めてしまいます。信仰の先輩たちを見て、親近感が湧いて来るのではないでしょうか? 偉大な指導者であったモーセも最後は失敗して、約束の地「カナン」には入れませんでした。バトンを受け継いだ「ヨシュア」が、滅ぼされたイスラエルの民の子孫たちを「カナンの地」に導きいれました。ヨシュアがすごい人だったという事ではなく、ヨシュアは、神の恵みによって次世代のリーダーとなり、イスラエルやモーセの失敗を教訓として倒れないで指導者としての働きを全うする事ができました。みなさん、私たちもヨシュアのように、「神の恵みによって守って下さい」と祈り、また、失敗の歴史を教訓としながら、次世代のリーダーとなって下さい。これから教会に新しい人がたくさん導かれて来ます。あなたは、その人たちを先輩として、リーダーとして導くバトンが手渡される人です。失敗してから学ぶのではなく、歴史から学んで下さい。多くの牧師やクリスチャンのリーダーが失脚し、信仰を失った直接的な原因は、①金銭 ②不品行 ③名誉の問題です。お金にクリーンになる秘訣は、什一献金を捧げることです。不品行の誘惑とは戦っても勝てませんので、男女の誘惑が起こるシチュエーションを避けて下さい。名誉欲に勝つ秘訣は「感謝」です。不満が名誉を求めさせてしまうからです。
結論
敬老の日に際して、年配者たちに対する愛を、尊敬し、感謝を表していきたいものです。
年配者たちは、私たちよりも先に生まれ、先にいろいろなことを経験して、その生き方とその末路を示してくれました。
1、年配者たちの生き方を見て、聖書が教えている歩み方においては、模範として歩んでいきましょう。
2、年配者たちの生き方を見て、聖書が誤りとして教える歩み方においては、教訓として避けていきたいものです。
3、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」とある通り、主の憐れみを求めながら歩んで参りましょう。
「本日の聖書箇所」 新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章1節~12節
1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
7 あなたがたは、彼らの中にある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
8 また、私たちは彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
説教題:「信仰の先輩たちが与えてくれた教訓」
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章1節~12節
説教者:菅野直基牧師
今日は、明日の敬老の日を覚えて敬老感謝礼拝を捧げます。敬老とは、年を取った人を敬うという意味です。聖書は、「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」(レビ記19:32)と語ります。しかしこれは、儒教的な意味の道徳律ではなく、聖書が教える愛の具体的な形です。目の上の人を尊敬し、大切にすることは、愛するなら当然起こって来ることです。目上の人に対する愛を思い起こす日となったら幸いです。次に聖書は、年配者たちが残し、与えてくれた教訓を大切にするように教えます。パウロは、信仰の先輩たちの生き方とその末路を示して、その歴史を教訓としなさい。そして、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント第一10:12)と、コリントの教会の一人一人に勧めました。この言葉は、新宿福興教会に私たち一人一人に向かっても語られた言葉であると受け止めましょう。
1、信仰の先輩たちの通った道
聖書は、信仰の先輩たちが通って来た道を語ります。これは、私たちも通る道です。「私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(コリント第一10:1~4)ここで、「雲」は「聖霊」を表し、「海」は「洗礼の水」を表します。また、「御霊の食べ物」は「天から下って来たマナ(食べ物)」の事で、「御霊の飲み物」は「飲料水」です。神は、一人の人「アブラハム」を選び、アブラハムから「イスラエルの民」を造られました。イスラエルの民は、ヨセフの時代からエジプトに移り住み、ヨセフが死んでからはエジプトで奴隷生活を強いられました。イスラエルが、「神様、奴隷の生活から救い出して解放して下さい」と祈ると、神は、「モーセ」を選んで、イスラエルをエジプトから解放するために立てられました。イスラエルの民は、モーセを先頭にエジプトから脱出しました。これを「出エジプト(ヘブライ語: שמות、英語: Exodus)」と言います。まず、モーセが杖を天に向かって差し伸べると、紅海が真っ二つに割れて、そこにできた道を通って、エジプトの地を後にしました。その時、イスラエルの民は、水しぶきを受けました。洗礼を象徴しました。また、モーセより先に、昼は「雲の柱」、夜は「火の柱」がイスラエルを導きました。聖霊様でした。紅海を渡った先にあった地は荒野でした。荒野は昼暑く、夜寒いのです。昼間は、雲の柱が直射日光をさえぎり、夜は、同じ雲の柱が火の柱となって、凍えるような寒さを暖めてくれました。また、荒野には、命も、食べ物も、飲み物もありませんが、神様は、天からマナを降らせ、岩から水を出させて、イスラエルが餓えて死なないように食べ物と飲み物を与えてくれました。みなさん、信仰の先輩たちが通った道は、私たちも通る道です。「雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」とは、私たちが、イエス様を信じた時に、イスラエルがモーセをついて出エジプトをしたように、イエス様について罪の奴隷の生活から脱出し、また、イスラエルが「雲」と「海」でモーセにつくバプテスマを受けたように、「聖霊と火のバプテスマ」と「水の洗礼」を象徴するイエスのつくバプテスマを受けてクリスチャンになります。さらに、御霊の食べ物が象徴する「聖書の言葉」と御霊の飲み物が象徴する「聖霊の水」を飲みながらクリスチャン生活を送ります。この世の荒野がどんなに厳しい環境でも、霊的に死ぬ事がありません。聖書は、「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下に新しいものは一つもない。」(伝道者の書1:9)とありますが、信仰の先輩たちが通って来た道を、私たちも通っているのです。私たちの信仰は新興宗教ではなく、数千年の歴史があるものなのです。その道を共に歩んでいきましょう。
2、信仰の先輩たちの通った道とその末路
イスラエルの民が出エジプトし、荒野を通って、約束の地「カナン」を目指して旅を始めました。私たちに取っては、天国を目指しての旅である毎日のクリスチャン生活です。もし、聖書が宗教書であるならば、信仰の先輩たちの「成功例」を語り、「同じ道を歩みなさい」と締め括ったことでしょう。しかし、聖書は宗教書ではなく、神の言葉です。人間のありのままの姿を語っています。そこには、ありのままの姿を否定しないで、受け入れ、赦し、愛しておられる神の心がよく現されています。神は、私たちのことも、ありのままの姿を否定せずに受け入れ、赦し、愛して下さっています。神の愛は、罪や失敗を水に流しているのではなく、罪の刑罰を一人子イエス・キリストが十字架で身代わりに引き受け、墓に葬られ、三日目によみがえられたので与えられています。神は、いつの時代も愛の神です。しかし、義の神でもあり、赦しと同時に、私たちが成長し、祝福されたクリスチャン・ライフと天国への道を歩むことを願っておられます。信仰の先輩たちが失敗した「失敗例」を指し示し、戒めとし、教訓としなさいと教えます。イスラエルは、良いスタートを切りました。しかし、途中から道を踏み外してしまったのです。私たちクリスチャンも、良い信仰生活のスタートを切ったのに、途中から道を踏み外し、迷って信仰を捨ててしまう可能性があります。イスラエルが道を踏み外したのは、3つの罪でした。①「偶像崇拝」 ②「姦淫」 ③「不信仰」と「不従順」です。そして、その末路は、「神の裁き」と「蛇の毒」によって滅ぼされてしまいました。クリスチャンが陥りやすい具体的な罪は、「偶像崇拝」と「姦淫」です。偶像崇拝は、神でないものを拝んだり、神よりも大切なものを持つことです。姦淫とは、結婚した人が行う「性的不道徳」です。未婚の人が同じ事を行った場合は「不品行」と言います。イスラエルの民が姦淫を行った時に、一日に23000人もの人に神の裁きが下って死にました。このできごとは、イエス・キリストの十字架以前だから、厳しい裁きが下ったと言えるかも知れませんが、クリスチャンになってからも、性的な不道徳を行い続けるならば、死ぬ事ではないにせよ、何らかの形で神の裁きが下る可能性があることを知って下さい。そして、不信仰と不従順は、「蛇」を象徴する「悪魔」によって圧迫され、喜びと力を失い、神から離れて、罪と悪魔の奴隷とされてしまいます。みなさん、神様は、いつも今、救いと回復のチャンスを与えて下さっています。『神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(コリント第二6:2)また、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』(ヘブル4:7)と書かれています。信仰の先輩の末路を見て、同じ道を歩まず、悔い改めて、聖書の言葉と神様に従って歩んで行きましょう。初代ドイツ帝国宰相のオットー・フォン・ビスマルク(1815年 ~1898年)は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」と語りましたが、失敗して、痛い目に遭ってから真剣に悔い改めるのもいいですが、痛い目に遭う前に、今日、今、信仰の先輩たちの末路から教訓として学び、生きて参りましょう。
3、立っていると思う者は、倒れないように気をつけましょう
聖書は、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(コリント第一10:12)と語ります。どうぞ、「私は大丈夫!」と思っている人は気をつけて下さい。また、「私は弱いので不安です!?」と思っている人はもっと気をつけて下さい。つまり、誰もが気をつけないと、気がついたら罪に陥り、滅びに向かう道を歩み始めてしまいます。信仰の先輩たちを見て、親近感が湧いて来るのではないでしょうか? 偉大な指導者であったモーセも最後は失敗して、約束の地「カナン」には入れませんでした。バトンを受け継いだ「ヨシュア」が、滅ぼされたイスラエルの民の子孫たちを「カナンの地」に導きいれました。ヨシュアがすごい人だったという事ではなく、ヨシュアは、神の恵みによって次世代のリーダーとなり、イスラエルやモーセの失敗を教訓として倒れないで指導者としての働きを全うする事ができました。みなさん、私たちもヨシュアのように、「神の恵みによって守って下さい」と祈り、また、失敗の歴史を教訓としながら、次世代のリーダーとなって下さい。これから教会に新しい人がたくさん導かれて来ます。あなたは、その人たちを先輩として、リーダーとして導くバトンが手渡される人です。失敗してから学ぶのではなく、歴史から学んで下さい。多くの牧師やクリスチャンのリーダーが失脚し、信仰を失った直接的な原因は、①金銭 ②不品行 ③名誉の問題です。お金にクリーンになる秘訣は、什一献金を捧げることです。不品行の誘惑とは戦っても勝てませんので、男女の誘惑が起こるシチュエーションを避けて下さい。名誉欲に勝つ秘訣は「感謝」です。不満が名誉を求めさせてしまうからです。
結論
敬老の日に際して、年配者たちに対する愛を、尊敬し、感謝を表していきたいものです。
年配者たちは、私たちよりも先に生まれ、先にいろいろなことを経験して、その生き方とその末路を示してくれました。
1、年配者たちの生き方を見て、聖書が教えている歩み方においては、模範として歩んでいきましょう。
2、年配者たちの生き方を見て、聖書が誤りとして教える歩み方においては、教訓として避けていきたいものです。
3、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」とある通り、主の憐れみを求めながら歩んで参りましょう。
「本日の聖書箇所」 新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章1節~12節
1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
7 あなたがたは、彼らの中にある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
8 また、私たちは彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
2016年09月10日
2016年9月11日 日曜礼拝 説教要約
2016年9月11日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「イエスは良い牧者②」
聖書箇所:ヨハネの福音書10章11節~21節
説教者:菅野直基牧師
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
10:19 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。
10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」
前回は、イエスが語られた「良い牧者のたとえ話」から学びました。前半を学びましたので、今週は、その続きの後半を学びます。
1、良い牧者と雇い人の対比 (11節~18節)
(1)良い牧者の特徴・・・(11節)
(2)良い牧者の実例
(3)雇い人の特徴・・・(12節~13節)
(4)雇い人の実例
①エレミヤ12:10~11
『多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした。それは恐怖と化し、荒れ果てて、私に向かって嘆いている。全地は荒らされてしまった。だれも心に留める者がいないのだ。』
②エゼキエル34:2~4
『「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。』
(5)パリサイ人たち
①『彼ら(パリサイ人たち)は重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。』 (マタイ23:4)
②『忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。』 (マタイ23:13)
③『さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。』 (ルカ16:14)
(6)良い牧者は羊を知っている
(7)羊は自分の所有者を知っている
(8)牧者と羊の関係
(9)良い牧者は羊のためにいのちを捨てる。しかし・・・(11節)
①『忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。』 (マタイ23:13)
②『さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。』 (ルカ16:14)
(10)この囲いに属さないほかの羊・・・(16節)
①『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』 (ヨハネ14:6)
②『イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』 (ヨハネ7:37~38)
(11)彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となる・・・(16節)
①教会
②教会の頭はイエス
③『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』 (エペソ2:14~16)
(12)十字架の死を預言する・・・(17節~18節)
2、信じる者と信じない者の対比 (19節~21節)
(1)イエスのことばを聞いて、ユダヤ人の間に分裂が起こった・・・(19節)
(2)イエスのおられるとろ、至る所で分裂が起こった・・・(19節)
①『わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。』 (マタイ10:34~36)
(3)指導者の悪影響・・・(20節)
①イエスは、罪を犯さず、人々を愛され、優しい良いお方だったのに、指導者たちからの悪影響を受けて、イエスに対して、『あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。』 と拒否した。
(4)イエスを信じた者もいた・・(21節)
Ⅰだから伝道をする必要がある
①『ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」』
結論
1、イエスは誰か?
2、羊の牧者と羊の関係
3、現代の牧者は?
①大牧者はイエスである。『永遠の契約の血による羊の大牧者』 (ヘブル13:20)
②牧師はイエスに立てられた教職である。『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。』 (エペソ4:11)
③牧師のあるべき姿。『そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。』 (第一ペテロ5:1~4)
④しかし、現代の教会の牧師の中には、雇われたサラリーマン牧師がいる。
4、牧師のあるべき姿
①信徒は自分の所有物ではない。信徒はイエスのものであることを忘れない。
②神の羊の群れ(信徒)を牧することをイエスから委ねられている。
③牧会は、強制されてではなく、自発的に行う。
④信徒を支配するのではなく、模範となる。
⑤信徒を追い立てるのではなく、信徒の先頭に立つ。
⑥牧師の模範はイエスである。
5、信徒のあるべき姿
①信徒は牧師を愛する。
②「牧師につまずいた」という前に、牧師のために祈る。
③教会が前進するために牧師だけが働くのではなく、信徒と牧師の共同で力を合わせて働いていく。
④牧師を認め、その務めのゆえに尊敬する。
『兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。』 (第一テサロニケ5:12)
⑤牧師に依存しすぎない。頼るべきお方はイエスである。
⑥聖書的罪を犯している兄弟姉妹がいたら、三段階の手順に従って罪を悔い改めるようにいさめる。
『もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。』 (マタイ18:15~17)
⑦聖書が、明確に罪と断じていないこと、つまり、グレーゾーンのことに関しては、好き嫌いで裁き合うのではなく、受け入れあう。
⑧「日曜日の礼拝」を最善の努力で守り、「什分の一献金」と「感謝献金」を自発的に捧げる。
説教題:「イエスは良い牧者②」
聖書箇所:ヨハネの福音書10章11節~21節
説教者:菅野直基牧師
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
10:19 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。
10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」
前回は、イエスが語られた「良い牧者のたとえ話」から学びました。前半を学びましたので、今週は、その続きの後半を学びます。
1、良い牧者と雇い人の対比 (11節~18節)
(1)良い牧者の特徴・・・(11節)
(2)良い牧者の実例
(3)雇い人の特徴・・・(12節~13節)
(4)雇い人の実例
①エレミヤ12:10~11
『多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし、私の地所を踏みつけ、私の慕う地所を、恐怖の荒野にした。それは恐怖と化し、荒れ果てて、私に向かって嘆いている。全地は荒らされてしまった。だれも心に留める者がいないのだ。』
②エゼキエル34:2~4
『「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。』
(5)パリサイ人たち
①『彼ら(パリサイ人たち)は重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。』 (マタイ23:4)
②『忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。』 (マタイ23:13)
③『さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。』 (ルカ16:14)
(6)良い牧者は羊を知っている
(7)羊は自分の所有者を知っている
(8)牧者と羊の関係
(9)良い牧者は羊のためにいのちを捨てる。しかし・・・(11節)
①『忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。』 (マタイ23:13)
②『さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。』 (ルカ16:14)
(10)この囲いに属さないほかの羊・・・(16節)
①『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』 (ヨハネ14:6)
②『イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』 (ヨハネ7:37~38)
(11)彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となる・・・(16節)
①教会
②教会の頭はイエス
③『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』 (エペソ2:14~16)
(12)十字架の死を預言する・・・(17節~18節)
2、信じる者と信じない者の対比 (19節~21節)
(1)イエスのことばを聞いて、ユダヤ人の間に分裂が起こった・・・(19節)
(2)イエスのおられるとろ、至る所で分裂が起こった・・・(19節)
①『わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。』 (マタイ10:34~36)
(3)指導者の悪影響・・・(20節)
①イエスは、罪を犯さず、人々を愛され、優しい良いお方だったのに、指導者たちからの悪影響を受けて、イエスに対して、『あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。』 と拒否した。
(4)イエスを信じた者もいた・・(21節)
Ⅰだから伝道をする必要がある
①『ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」』
結論
1、イエスは誰か?
2、羊の牧者と羊の関係
3、現代の牧者は?
①大牧者はイエスである。『永遠の契約の血による羊の大牧者』 (ヘブル13:20)
②牧師はイエスに立てられた教職である。『こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。』 (エペソ4:11)
③牧師のあるべき姿。『そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。』 (第一ペテロ5:1~4)
④しかし、現代の教会の牧師の中には、雇われたサラリーマン牧師がいる。
4、牧師のあるべき姿
①信徒は自分の所有物ではない。信徒はイエスのものであることを忘れない。
②神の羊の群れ(信徒)を牧することをイエスから委ねられている。
③牧会は、強制されてではなく、自発的に行う。
④信徒を支配するのではなく、模範となる。
⑤信徒を追い立てるのではなく、信徒の先頭に立つ。
⑥牧師の模範はイエスである。
5、信徒のあるべき姿
①信徒は牧師を愛する。
②「牧師につまずいた」という前に、牧師のために祈る。
③教会が前進するために牧師だけが働くのではなく、信徒と牧師の共同で力を合わせて働いていく。
④牧師を認め、その務めのゆえに尊敬する。
『兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。』 (第一テサロニケ5:12)
⑤牧師に依存しすぎない。頼るべきお方はイエスである。
⑥聖書的罪を犯している兄弟姉妹がいたら、三段階の手順に従って罪を悔い改めるようにいさめる。
『もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。』 (マタイ18:15~17)
⑦聖書が、明確に罪と断じていないこと、つまり、グレーゾーンのことに関しては、好き嫌いで裁き合うのではなく、受け入れあう。
⑧「日曜日の礼拝」を最善の努力で守り、「什分の一献金」と「感謝献金」を自発的に捧げる。
2016年09月02日
2016年9月4日 日曜礼拝 説教要約
2016年9月4日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「なんで私ばっかり?に対する答え」
聖書箇所:創世記50章1節~22節
説教者:菅野直基牧師
あなたは、他人が原因でトラブルに巻き込まれたことがありますか?親しい人から裏切られ、拒絶され、捨てられ、濡れ衣を着せられた時、どう処したらいいのでしょうか。今日の登場人物は、創世記に出て来るヨセフです。ヨセフは、12人兄弟の下から2番目でした。父の寵愛を一身に受けていました。他の兄弟たちは、それを快く思っていませんでした。嫉妬し、それが殺意に変わっていきました。ある日、兄弟たちがヨセフ殺害を企てました。しかし、「殺すよりは、売ってお金にした方が良い」という結論になり、通りがかった外国の商人にヨセフを売り渡しました。商人はヨセフをエジプトに連れて行って、奴隷として売り渡しました。言葉がわからず、異国の地でつらい毎日を過ごしていました。しかし、ヨセフが神からの寵愛も受けていました。神の取り計らいにより、奴隷として売られた主人の好意を得ることができました。しかし、主人の奥さんに特別な感情を持たれ、性的関係を持つようにと迫られました。主人を裏切ることができないヨセフはそれを断ると、奥さんは、「奴隷のヨセフが私を強姦しようとした」と騒ぎ立て、濡れ衣を着せられ、牢屋にぶち込まれました。このような理不尽なできごとから何年も経った時、自分をエジプトに売った兄たちと再会を果たしました。ヨセフは兄たちに怒りをぶちまけたでしょうか? 一連のできごとを思い出しながら、『あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。』 (創世記50:20~21)と語りました。ヨセフも人間です。「なんで私ばっかり!?」と思ったことがあったと思います。しかし、「お兄さんたちは私に悪事を行いました」と、冷静に、客観的に受け止めた上で、「神がその悪事を祝福に変えて下さり、マイナスがプラスに変わったのです。もう怒ってないですよ」といったのです。ヨセフは、なぜそんなお人良しなことがいえたのでしょうか。今日は、ヨセフがなぜそのように生きられたかについて学びます。
1、ヨセフの生き方の秘訣
①・・・「神は私をわかってくれている」
②・・・「選択の自由があった」
③・・・「しかし、究極的にものごとを支配しておられるのは神である」
2、逆境に対処する
①・・・「自己憐憫を退けた」
②・・・「問題と真正面から対峙した」
③・・・「落胆している時には決断を控えよ」
④・・・「誰も恨まない」
3、危機を乗り越える力を身につける
①・・・「神の計画を信じる」
②・・・「神の約束にかける」
③・・・「信仰の友との交わり」
④・・・「神の臨在」
⑤・・・「悔い改める」
★今日の聖書箇所 「創世記50章15節~21節」
50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。
50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。
50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。
50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」
50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。
説教題:「なんで私ばっかり?に対する答え」
聖書箇所:創世記50章1節~22節
説教者:菅野直基牧師
あなたは、他人が原因でトラブルに巻き込まれたことがありますか?親しい人から裏切られ、拒絶され、捨てられ、濡れ衣を着せられた時、どう処したらいいのでしょうか。今日の登場人物は、創世記に出て来るヨセフです。ヨセフは、12人兄弟の下から2番目でした。父の寵愛を一身に受けていました。他の兄弟たちは、それを快く思っていませんでした。嫉妬し、それが殺意に変わっていきました。ある日、兄弟たちがヨセフ殺害を企てました。しかし、「殺すよりは、売ってお金にした方が良い」という結論になり、通りがかった外国の商人にヨセフを売り渡しました。商人はヨセフをエジプトに連れて行って、奴隷として売り渡しました。言葉がわからず、異国の地でつらい毎日を過ごしていました。しかし、ヨセフが神からの寵愛も受けていました。神の取り計らいにより、奴隷として売られた主人の好意を得ることができました。しかし、主人の奥さんに特別な感情を持たれ、性的関係を持つようにと迫られました。主人を裏切ることができないヨセフはそれを断ると、奥さんは、「奴隷のヨセフが私を強姦しようとした」と騒ぎ立て、濡れ衣を着せられ、牢屋にぶち込まれました。このような理不尽なできごとから何年も経った時、自分をエジプトに売った兄たちと再会を果たしました。ヨセフは兄たちに怒りをぶちまけたでしょうか? 一連のできごとを思い出しながら、『あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。』 (創世記50:20~21)と語りました。ヨセフも人間です。「なんで私ばっかり!?」と思ったことがあったと思います。しかし、「お兄さんたちは私に悪事を行いました」と、冷静に、客観的に受け止めた上で、「神がその悪事を祝福に変えて下さり、マイナスがプラスに変わったのです。もう怒ってないですよ」といったのです。ヨセフは、なぜそんなお人良しなことがいえたのでしょうか。今日は、ヨセフがなぜそのように生きられたかについて学びます。
1、ヨセフの生き方の秘訣
①・・・「神は私をわかってくれている」
②・・・「選択の自由があった」
③・・・「しかし、究極的にものごとを支配しておられるのは神である」
2、逆境に対処する
①・・・「自己憐憫を退けた」
②・・・「問題と真正面から対峙した」
③・・・「落胆している時には決断を控えよ」
④・・・「誰も恨まない」
3、危機を乗り越える力を身につける
①・・・「神の計画を信じる」
②・・・「神の約束にかける」
③・・・「信仰の友との交わり」
④・・・「神の臨在」
⑤・・・「悔い改める」
★今日の聖書箇所 「創世記50章15節~21節」
50:15 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。
50:16 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。
50:17 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣いた。
50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」
50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。
2016年08月27日
2016年8月28日 日曜礼拝 説教要約
2016年8月28日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「イエスは良い牧者①」
聖書箇所:ヨハネの福音書10章1節~10節
説教者:菅野直基牧師
先週は、イエスが生まれつきの盲人をいやされたできごとを通して学びました。今日から章が変わって10章に入りますが、聖書につけられている「章や節」は、後日、人工的につけられたものです。『イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』 (9:41)と 『まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。』 (10:1)は区切るべきではなく、そのまま続いている文章として読むべきです。パリサイ人への厳しい言葉として、「良い牧者のたとえ話」が語られました。パリサイ人たちはそれを理解できませんでした。今日はこの「たとえ話」から学びます。
1、良い牧者のたとえ話
当時のイスラエル社会において、羊飼いが羊を牧する光景はごくありふれたものであった。ゆえに、たとえ話として普通に使われた。
詩篇23編をはじめ、聖書は「羊飼いと羊」の比喩を頻繁に使う。アブラハム、イサク、ヤコブをはじめ、モーセやダビデは羊飼いが職業だった。霊的真理を伝えるためにイエスは、「羊飼の牧者と羊のたとえ」を使った。
2、羊飼いと盗人の対比 (1節~6節)
(1)用語・・(1節)
(2)イエスとパリサイ人・・・(2節)
(3)門番と羊と牧者の関係・・・(3節~4節)
(4)ほかの人・・・(5節)
(5)たとえ話が語られた対象・・・(6節)
3、羊の門と盗人・強盗の対比 (7節~10節)
(1)「しいたとえ話・・・(7節~10節)
Ⅰ二種類の門
Ⅱイエスは門である
Ⅲ牧者に従う羊
(2)盗人とイエスの羊を飼う動機の違い・・・(10節)
Ⅰ盗人の動機
Ⅱイエスの動機
結論
1、名を呼ぶ
(1)牧者は、羊に名をつける
①現代でも、牧者は羊一匹一匹に名前をつける。(ペットを飼っている人は、よく理解できるであろう。)
②そして、羊一匹一匹の名前を呼んで連れ出す。
③『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』 (イザヤ43:1)
④『イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』 (ルカ19:5)
⑤同じように、イエスはあなたの名を呼び、あなたを連れ出し、あなたを導かれる。
2、いのちを得、それを豊かに持つために
(1)イエスが与えるいのち
①このいのちは、イエスが、「私の罪のめに十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみがえった救い主」と信じた瞬間に与えられる。
②新改訳で訳された「いのち」には、ギリシャ語の「プシュケー」と「ゾーエー」の2種類の言葉に分かれている。「プシュケー」は、肉体的な限りあるいのちを指し、「ゾーエー」は、根源的・霊的ないのちを指します。(ヨハネ3:16は「ゾーエー」、マタイ6:25は「プシュケー」)
③『羊がいのちを得、またそれを豊かに持つ』 (10節)の「いのち」は、根源的・霊的ないのちの「ゾーエー」が使われる。
④この「いのち」は、現在形であり、同時に、永続的に継続するいのちである。すでにはじまっていて、終わることがないいのち。
⑤イエスを信じて与えられた「ゾーエー」を豊かに持つためには、①神の臨在の中に入って礼拝し、聖書の牧草を食べ、聖霊の水を飲むこと。②そして、この世に出て行って福音を伝えるために、イエスの門を通って出入りすること。
⑥その歩みの中で、より深く聖霊に支配されるようになり、豊かにいのちを持つようになる。
⑦イエスに導かれて、毎週の日曜日の礼拝を休まずに捧げ、什分の一をお返しし、兄弟姉妹の交わり絶やさず、出て行って伝道する信仰生活を継続しよう。
⑧イエス以外の悪魔の声、自我の声、世の声に惑わされないで、その声から逃げて、イエスだけについていこう。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書10章1節~10節」
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
説教題:「イエスは良い牧者①」
聖書箇所:ヨハネの福音書10章1節~10節
説教者:菅野直基牧師
先週は、イエスが生まれつきの盲人をいやされたできごとを通して学びました。今日から章が変わって10章に入りますが、聖書につけられている「章や節」は、後日、人工的につけられたものです。『イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』 (9:41)と 『まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。』 (10:1)は区切るべきではなく、そのまま続いている文章として読むべきです。パリサイ人への厳しい言葉として、「良い牧者のたとえ話」が語られました。パリサイ人たちはそれを理解できませんでした。今日はこの「たとえ話」から学びます。
1、良い牧者のたとえ話
当時のイスラエル社会において、羊飼いが羊を牧する光景はごくありふれたものであった。ゆえに、たとえ話として普通に使われた。
詩篇23編をはじめ、聖書は「羊飼いと羊」の比喩を頻繁に使う。アブラハム、イサク、ヤコブをはじめ、モーセやダビデは羊飼いが職業だった。霊的真理を伝えるためにイエスは、「羊飼の牧者と羊のたとえ」を使った。
2、羊飼いと盗人の対比 (1節~6節)
(1)用語・・(1節)
(2)イエスとパリサイ人・・・(2節)
(3)門番と羊と牧者の関係・・・(3節~4節)
(4)ほかの人・・・(5節)
(5)たとえ話が語られた対象・・・(6節)
3、羊の門と盗人・強盗の対比 (7節~10節)
(1)「しいたとえ話・・・(7節~10節)
Ⅰ二種類の門
Ⅱイエスは門である
Ⅲ牧者に従う羊
(2)盗人とイエスの羊を飼う動機の違い・・・(10節)
Ⅰ盗人の動機
Ⅱイエスの動機
結論
1、名を呼ぶ
(1)牧者は、羊に名をつける
①現代でも、牧者は羊一匹一匹に名前をつける。(ペットを飼っている人は、よく理解できるであろう。)
②そして、羊一匹一匹の名前を呼んで連れ出す。
③『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』 (イザヤ43:1)
④『イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』 (ルカ19:5)
⑤同じように、イエスはあなたの名を呼び、あなたを連れ出し、あなたを導かれる。
2、いのちを得、それを豊かに持つために
(1)イエスが与えるいのち
①このいのちは、イエスが、「私の罪のめに十字架で死に、墓に葬られ、三日目によみがえった救い主」と信じた瞬間に与えられる。
②新改訳で訳された「いのち」には、ギリシャ語の「プシュケー」と「ゾーエー」の2種類の言葉に分かれている。「プシュケー」は、肉体的な限りあるいのちを指し、「ゾーエー」は、根源的・霊的ないのちを指します。(ヨハネ3:16は「ゾーエー」、マタイ6:25は「プシュケー」)
③『羊がいのちを得、またそれを豊かに持つ』 (10節)の「いのち」は、根源的・霊的ないのちの「ゾーエー」が使われる。
④この「いのち」は、現在形であり、同時に、永続的に継続するいのちである。すでにはじまっていて、終わることがないいのち。
⑤イエスを信じて与えられた「ゾーエー」を豊かに持つためには、①神の臨在の中に入って礼拝し、聖書の牧草を食べ、聖霊の水を飲むこと。②そして、この世に出て行って福音を伝えるために、イエスの門を通って出入りすること。
⑥その歩みの中で、より深く聖霊に支配されるようになり、豊かにいのちを持つようになる。
⑦イエスに導かれて、毎週の日曜日の礼拝を休まずに捧げ、什分の一をお返しし、兄弟姉妹の交わり絶やさず、出て行って伝道する信仰生活を継続しよう。
⑧イエス以外の悪魔の声、自我の声、世の声に惑わされないで、その声から逃げて、イエスだけについていこう。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書10章1節~10節」
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
2016年08月21日
2016年8月21日 日曜礼拝 説教要約
2016年8月21日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「盲人の目を開くイエス②」
聖書箇所:ヨハネの福音書9章13節~41節 (聖句は一番下です)
説教者:菅野直基牧師
先週の箇所は、イエスがユダヤ人たちから石を投げられたので、宮を出られました。そこに施しを求める盲人が座っていたので、立ち止まり、目をとめられました。イエスは、最絶望的な状況にある生まれつきの盲人に目を注ぎました。イエスが憐れみの心を持たれていたことに対して、弟子たちは、興味本位で、「なぜこの人は盲人になったのでしょうか?」と、イエスに質問をしました。そこで神学問答がなされました。その後イエスは、つばで泥を作って、泥を盲人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗ってきなさい」と命じられました。その通りにすると、目がいやされるという奇跡が起こりました。ユダヤ人たちは、奇跡を認めたくないので、いやされた元盲人に質問をしました。「あなたがいやされたその人なのか!?」と。ある人は、「別人だ」といい、ある人は「本人だ」といいましたが、当人自らが、「私です」と証言しました。まだ見たことがないイエスから泥を塗られて、いわれた通りに目を洗っただけでした。そうしたらいやされたので、まだイエスを見ていないのです。彼は、「イエスは今どこにいるのかわからない」と正直に話したところまでが先週の箇所です。今日はその続きです。
1、パリサイ人による最初の尋問 (13節~17節)
(1)群集は、元盲人をパリサイ人のところに連れて行きました・・・(13節~14節)
9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
(2)イエスのいやしのわざは、ユダヤ教と真っ向から対立しました。
①安息日に人をいやすこと。
②安息日に泥を作ること。
この2つが、ユダヤの口伝律法で禁じられていました。
(3)イエスの教えも、ユダヤ教と対立していました。
イエスの教えは、『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。』 (マルコ2:27)という内容です。
イエスはパリサイ人たちに、『こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。』 (マルコ7:13)と断定しました。
(4)尋問され、それに答える元盲人・・・(15節~16節)
9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
(5)元盲人は、ありのままを答えた。
①あの方がわたしの目に泥を塗ってくれました。
②「『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われたので洗いに行きました。」
③「そうしたら、見えるようになりました」、と。
(6)元盲人の答えを聞いて、パリサイ人の間で意見の対立が起こった。
①安息日を守らない者は、神から出た者ではない。
②罪人である者が、このようなしるしを行うことはできない、と。
(7)再び尋問。答える元盲人・・・(17節)
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
①イエスを「神の子やキリスト」とまでは信じていないが、
②「預言者」と認めた。
③旧約聖書に出て来る預言者は、神から遣わされて奇跡を行った。
2、パリサイ人の両親への尋問 (18節~22節)
(1)パリサイ人は奇跡が起こったことを信じたくなかった・・・(18節~19節)
9:18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
9:19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
(2)「両親なら本当の事を知っているだろう」と思って聞いた。
①息子さんの事ですが、「何かの手違いがあったのではないでしょうか?」
②両親が一番よく知っているので、「本人に間違いないですか?」「そして、どのようにいやされたのですか?」、と聞きました。
(3)両親は答えたが、恐れて危険を回避した・・・(20節~21節)
9:20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
9:21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。
(4)両親の答えは、当たり障りのない事実だけを語りました。
①これはわたしの息子です。
②彼は生まれつき盲目です。
③しかし、それ以上はわからない。
④大人なので本人に聞いて下さい、と。
(5)両親が恐れた理由・・・(22節)
9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
①パリサイ人たちは、イエスをキリストと告白する人を会堂から追放すると決めていました。
②会堂から追放されることは、経済的、社会的、宗教的基盤を失うことになる。日本的でいう「村八分」。
3、パリサイ人による第二の尋問(23節~34節)
(1)元盲人に、「神に栄光を帰しなさい」と言いました・・・(23節~25節)
9:23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。
9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
①「誓ってそういえるのか?嘘なら早く認めよ!」 、という意味です。
②「いやしは神のわざであるがゆえ、イエスではなく、神に栄光を帰せよ!」、と。
(2)元盲人は、「知っていること」と「知らないこと」を区別した。
①知らないことは、『あの方が罪人かどうか、私は知りません』。
②知っていることは、『私は盲目であったのに、今は見えるということです』。
(3)元盲人は、くどい質問に腹を立てて皮肉った・・・(26節~27節)
9:26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
(4)元盲人の答え
①さっきも話したが、聞いてくれませんでした。
②なぜもう一度聞くのですか?
③あなたがたも、イエスの弟子になりたいのですか?、と。
(5)侮辱されたパリサイ人
①無学な乞食が意見している。
②しかも、「イエスの弟子になりたいのか?」と、あってはならない内容だ。
(6)侮辱され、証言を崩せず、攻撃に転じるパリサイ人・・・(28節~29節)
9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
9:29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
①お前はイエスの弟子だ。最悪だ。
②私たちはモーセの弟子だ。最高だ。
(7)知っているつもりで、知らなければいけないことも知らないパリサイ人。
①「イエスがどこから来たか知らない」。
②モーセの教えを知っていたら、イエスをキリストと信じた。
③モーセよりも偉大な方が目の前に現れたのに、信じず、知らなければいけないことを知らなかった。
(8)反撃に転じる元盲人・・・(30節~33節)
9:30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
①パリサイ人は意表を突かれた。
②まさか、物乞いが自分たちを攻撃するとは!?
③元盲人は、自立しはじめている。
④人はイエスと出会うなら、変わっていく。
(9)元盲人の理屈
①あなたがたは、霊的指導者。
②なのに、私の目をあけた方を知らない。
③それでも、指導者なのか!?
④ユダヤ教の教えでは、「神は罪人のいうことをお聞きにならない」とあるが、
⑤イエスが、生まれつき盲人の私の目を開けたのは、神から出ている方にほかならないからなのでは!?、と。
(10)元盲人を怒り、追放するパリサイ人・・・(34節)
9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
①本人の罪と、生まれつき盲人で生まれたことを結び付けた。
②神は、ヨブの不幸を当人と結びつけて責めた友人たちに対して、『あなたがたがわたしについて真実を語らず、』 (ヨブ42:7)と怒り、断じた。本人の罪と、生まれつき盲人であることを結びつけることは、的外れであり、間違い。
①「外に追い出した」とは、「会堂から追放した」ということである。
②元盲人は、生活基盤を失った。
4、霊的ないやし (35節~41節)
(1)イエスが元盲人を探し出しました・・・(35節~36節)
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
元盲人は、この時点では、イエスが誰だかわかっていないのです。
そこで、イエスは、元盲人に必要な情報を伝えました・・・(37節~38節)
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
(2)「あなたと話している私がキリストだ」・・・福音伝道の必要性。
聖書は、『しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。』 (ローマ10:14)
『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』 (ローマ10:17)
(3)信仰によって応答する元盲人。
①イエスが神の子であると知り、信じたので、礼拝した。
②この瞬間、肉の目だけではなく、霊の目も開かれた。
(4)福音の効果・・・(39節)
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
①「目が見えない」と認めるなら、目が開かれる。
②しかし、「私は見える」と言い張る人は、そのまま目が開かれることがない。
(5)傲慢なパリサイ人・・・(40節~41節)
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
(6)傲慢なパリサイ人
「私たちは見える」ということが前提で、「私たちも盲目なのですか?」と質問した。
(7)イエスの答え
①盲目だと自覚するなら、目が開かれる道があるのに、「見える」と言い張るので、自ら開かれる道を閉ざした。
②『イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」』 (ルカ5:31~32)
③罪人だと自覚した人だけがイエスのもとに来られる。
④あなたは、神の前で、自分が「見えない」「病人」「罪人」だと認めますか? その時はじめて、イエスが必要になるのです。
結論
(1)「知っている」と「知らない」
①パリサイ人たちは、『自分たちは「モーセ」と「モーセの律法」を知っている』といったが、知らないことが証明された。
②元盲人は、律法に関しても、イエスに対しても無知であったが、自分の目を開いたイエスを知っていた。誰も反論できない。
③証は、あなたが知っているイエスだけを語ればよい。知らないキリスト教の教理を語る必要はない。
④知っていることでも、この世は、あなたの証を打ち消そうとする。
⑤証をする力は、「使徒の働き1:8」にある聖霊の力だ。
(2)会堂からの追放
①会堂から追放されたユダヤ人は、会堂で礼拝ができなくなったが、イエスを礼拝するようになった。
②会堂から追放されたユダヤ人たちは、このできごとを読んで、大きな慰めを受けたはず。
③聖書は、「イエスを信じたら良い事だけが起こる」「お金持ちになる」「病気にならない」とは教えていない。
④『わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。』 (マルコ13:13)とある。
⑤世があなたを拒絶し、迫害したとしても驚く必要はない。イエスがあなたを受け入れて下さることを忘れるな。
⑥このことは、隠れクリスチャンや、人目を恐れて、イエスを信じることに躊躇している人に、後押しと励ましを与える。
⑦イエスは、ご自分のところに引き寄せるために、あえて人々から拒絶されたり、迫害されたりすることを許される。この世で敬虔に生きようとすると、世の人々から憎まれ、迫害されることが多いのです。恐れないでイエスについていきましょう。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書9章13節~41節」
9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
9:18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
9:19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
9:20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
9:21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。
9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
9:23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。
9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
9:26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
9:29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
9:30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
説教題:「盲人の目を開くイエス②」
聖書箇所:ヨハネの福音書9章13節~41節 (聖句は一番下です)
説教者:菅野直基牧師
先週の箇所は、イエスがユダヤ人たちから石を投げられたので、宮を出られました。そこに施しを求める盲人が座っていたので、立ち止まり、目をとめられました。イエスは、最絶望的な状況にある生まれつきの盲人に目を注ぎました。イエスが憐れみの心を持たれていたことに対して、弟子たちは、興味本位で、「なぜこの人は盲人になったのでしょうか?」と、イエスに質問をしました。そこで神学問答がなされました。その後イエスは、つばで泥を作って、泥を盲人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗ってきなさい」と命じられました。その通りにすると、目がいやされるという奇跡が起こりました。ユダヤ人たちは、奇跡を認めたくないので、いやされた元盲人に質問をしました。「あなたがいやされたその人なのか!?」と。ある人は、「別人だ」といい、ある人は「本人だ」といいましたが、当人自らが、「私です」と証言しました。まだ見たことがないイエスから泥を塗られて、いわれた通りに目を洗っただけでした。そうしたらいやされたので、まだイエスを見ていないのです。彼は、「イエスは今どこにいるのかわからない」と正直に話したところまでが先週の箇所です。今日はその続きです。
1、パリサイ人による最初の尋問 (13節~17節)
(1)群集は、元盲人をパリサイ人のところに連れて行きました・・・(13節~14節)
9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
(2)イエスのいやしのわざは、ユダヤ教と真っ向から対立しました。
①安息日に人をいやすこと。
②安息日に泥を作ること。
この2つが、ユダヤの口伝律法で禁じられていました。
(3)イエスの教えも、ユダヤ教と対立していました。
イエスの教えは、『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。』 (マルコ2:27)という内容です。
イエスはパリサイ人たちに、『こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。』 (マルコ7:13)と断定しました。
(4)尋問され、それに答える元盲人・・・(15節~16節)
9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
(5)元盲人は、ありのままを答えた。
①あの方がわたしの目に泥を塗ってくれました。
②「『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われたので洗いに行きました。」
③「そうしたら、見えるようになりました」、と。
(6)元盲人の答えを聞いて、パリサイ人の間で意見の対立が起こった。
①安息日を守らない者は、神から出た者ではない。
②罪人である者が、このようなしるしを行うことはできない、と。
(7)再び尋問。答える元盲人・・・(17節)
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
①イエスを「神の子やキリスト」とまでは信じていないが、
②「預言者」と認めた。
③旧約聖書に出て来る預言者は、神から遣わされて奇跡を行った。
2、パリサイ人の両親への尋問 (18節~22節)
(1)パリサイ人は奇跡が起こったことを信じたくなかった・・・(18節~19節)
9:18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
9:19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
(2)「両親なら本当の事を知っているだろう」と思って聞いた。
①息子さんの事ですが、「何かの手違いがあったのではないでしょうか?」
②両親が一番よく知っているので、「本人に間違いないですか?」「そして、どのようにいやされたのですか?」、と聞きました。
(3)両親は答えたが、恐れて危険を回避した・・・(20節~21節)
9:20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
9:21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。
(4)両親の答えは、当たり障りのない事実だけを語りました。
①これはわたしの息子です。
②彼は生まれつき盲目です。
③しかし、それ以上はわからない。
④大人なので本人に聞いて下さい、と。
(5)両親が恐れた理由・・・(22節)
9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
①パリサイ人たちは、イエスをキリストと告白する人を会堂から追放すると決めていました。
②会堂から追放されることは、経済的、社会的、宗教的基盤を失うことになる。日本的でいう「村八分」。
3、パリサイ人による第二の尋問(23節~34節)
(1)元盲人に、「神に栄光を帰しなさい」と言いました・・・(23節~25節)
9:23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。
9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
①「誓ってそういえるのか?嘘なら早く認めよ!」 、という意味です。
②「いやしは神のわざであるがゆえ、イエスではなく、神に栄光を帰せよ!」、と。
(2)元盲人は、「知っていること」と「知らないこと」を区別した。
①知らないことは、『あの方が罪人かどうか、私は知りません』。
②知っていることは、『私は盲目であったのに、今は見えるということです』。
(3)元盲人は、くどい質問に腹を立てて皮肉った・・・(26節~27節)
9:26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
(4)元盲人の答え
①さっきも話したが、聞いてくれませんでした。
②なぜもう一度聞くのですか?
③あなたがたも、イエスの弟子になりたいのですか?、と。
(5)侮辱されたパリサイ人
①無学な乞食が意見している。
②しかも、「イエスの弟子になりたいのか?」と、あってはならない内容だ。
(6)侮辱され、証言を崩せず、攻撃に転じるパリサイ人・・・(28節~29節)
9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
9:29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
①お前はイエスの弟子だ。最悪だ。
②私たちはモーセの弟子だ。最高だ。
(7)知っているつもりで、知らなければいけないことも知らないパリサイ人。
①「イエスがどこから来たか知らない」。
②モーセの教えを知っていたら、イエスをキリストと信じた。
③モーセよりも偉大な方が目の前に現れたのに、信じず、知らなければいけないことを知らなかった。
(8)反撃に転じる元盲人・・・(30節~33節)
9:30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
①パリサイ人は意表を突かれた。
②まさか、物乞いが自分たちを攻撃するとは!?
③元盲人は、自立しはじめている。
④人はイエスと出会うなら、変わっていく。
(9)元盲人の理屈
①あなたがたは、霊的指導者。
②なのに、私の目をあけた方を知らない。
③それでも、指導者なのか!?
④ユダヤ教の教えでは、「神は罪人のいうことをお聞きにならない」とあるが、
⑤イエスが、生まれつき盲人の私の目を開けたのは、神から出ている方にほかならないからなのでは!?、と。
(10)元盲人を怒り、追放するパリサイ人・・・(34節)
9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
①本人の罪と、生まれつき盲人で生まれたことを結び付けた。
②神は、ヨブの不幸を当人と結びつけて責めた友人たちに対して、『あなたがたがわたしについて真実を語らず、』 (ヨブ42:7)と怒り、断じた。本人の罪と、生まれつき盲人であることを結びつけることは、的外れであり、間違い。
①「外に追い出した」とは、「会堂から追放した」ということである。
②元盲人は、生活基盤を失った。
4、霊的ないやし (35節~41節)
(1)イエスが元盲人を探し出しました・・・(35節~36節)
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
元盲人は、この時点では、イエスが誰だかわかっていないのです。
そこで、イエスは、元盲人に必要な情報を伝えました・・・(37節~38節)
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
(2)「あなたと話している私がキリストだ」・・・福音伝道の必要性。
聖書は、『しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。』 (ローマ10:14)
『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』 (ローマ10:17)
(3)信仰によって応答する元盲人。
①イエスが神の子であると知り、信じたので、礼拝した。
②この瞬間、肉の目だけではなく、霊の目も開かれた。
(4)福音の効果・・・(39節)
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
①「目が見えない」と認めるなら、目が開かれる。
②しかし、「私は見える」と言い張る人は、そのまま目が開かれることがない。
(5)傲慢なパリサイ人・・・(40節~41節)
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
(6)傲慢なパリサイ人
「私たちは見える」ということが前提で、「私たちも盲目なのですか?」と質問した。
(7)イエスの答え
①盲目だと自覚するなら、目が開かれる道があるのに、「見える」と言い張るので、自ら開かれる道を閉ざした。
②『イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」』 (ルカ5:31~32)
③罪人だと自覚した人だけがイエスのもとに来られる。
④あなたは、神の前で、自分が「見えない」「病人」「罪人」だと認めますか? その時はじめて、イエスが必要になるのです。
結論
(1)「知っている」と「知らない」
①パリサイ人たちは、『自分たちは「モーセ」と「モーセの律法」を知っている』といったが、知らないことが証明された。
②元盲人は、律法に関しても、イエスに対しても無知であったが、自分の目を開いたイエスを知っていた。誰も反論できない。
③証は、あなたが知っているイエスだけを語ればよい。知らないキリスト教の教理を語る必要はない。
④知っていることでも、この世は、あなたの証を打ち消そうとする。
⑤証をする力は、「使徒の働き1:8」にある聖霊の力だ。
(2)会堂からの追放
①会堂から追放されたユダヤ人は、会堂で礼拝ができなくなったが、イエスを礼拝するようになった。
②会堂から追放されたユダヤ人たちは、このできごとを読んで、大きな慰めを受けたはず。
③聖書は、「イエスを信じたら良い事だけが起こる」「お金持ちになる」「病気にならない」とは教えていない。
④『わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。』 (マルコ13:13)とある。
⑤世があなたを拒絶し、迫害したとしても驚く必要はない。イエスがあなたを受け入れて下さることを忘れるな。
⑥このことは、隠れクリスチャンや、人目を恐れて、イエスを信じることに躊躇している人に、後押しと励ましを与える。
⑦イエスは、ご自分のところに引き寄せるために、あえて人々から拒絶されたり、迫害されたりすることを許される。この世で敬虔に生きようとすると、世の人々から憎まれ、迫害されることが多いのです。恐れないでイエスについていきましょう。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書9章13節~41節」
9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。
9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」
9:18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
9:19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」
9:20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。
9:21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。
9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。
9:23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と言ったのである。
9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
9:26 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。
9:29 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」
9:30 彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。
9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。
9:32 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。
9:33 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
9:34 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
2016年08月19日
2016年8月14日 日曜礼拝 説教要約
2016年8月14日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「盲人の目を開くイエス①」
聖書箇所:ヨハネの福音書9章1節~12節
説教者:菅野直基牧師
イエスの群集への説教を聞いて、イエスを信じたユダヤ人たちに、小グループでやり取りをしながら教えをしましたが、結果、イエスを拒否し、石を投げようとするという始末。イエスは宮から出て行かれました。第一サムエル4章の「イ・カボデ」と同じように、「栄光が去った」状態。宮を去ったイエスは、通りすがりに立ち止まって、生まれつきの盲人に目をとめられました。イエスは、必要のある人に関心を持たれます。弟子たちと神学問答をし、盲人の目をいやされました。今日はこの箇所から学びます。
1、イエスの選び (1節)
『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。』
(1)盲人は他人の慈善に頼らなければ生きていけない
(2)イエスは、最も絶望的な人に目をとめ、選ばれた
2、神学問答 (2節~5節)
(1)弟子たちは、盲人になった理由を聞いた・・・(2節)
①彼自身の罪が原因なのか? ②彼の両親の罪が原因なのか?
罪の罰は、本人が負う(エゼキエル書18:4)
『見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。』 (エゼキエル18:4)
親の咎は、子孫の代まで影響を及ぼす(出エジプト記20:5)
『あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、』 (出エジプト20:5)
人は、誕生前に罪を犯すことはあり得るのか?(2節)
パリサイ人は、胎児の時点で罪を犯し得ると考えた。
(2)第三の答え・・・(3節)
イエスは、第一と第二を否定し、第三の答えを出した。「盲目になった原因は、本人の罪のせいでもなく、その両親の罪のせいでもない。神のわざがこの人に現れるためです」と。
パウロの罪の教え(ローマ書3:23)
『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、』 (ローマ3:23)
すべての人は罪を犯している。しかし、特定の病や不幸を、罪の結果であると断じてはならない。
(3)イエスは世の光・・・(4節~5節)
『わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。』 (4節)当時、人は昼間に働き、夜は眠った。もちろん例外はあった。羊飼いや城壁を見張る人は、夜働き、昼休んだ。
イエスが働く3年半の公生涯が昼間で、ご自分が去って行く十字架の死以降を夜にたとえた。
3、盲人のいやし (6節~7節)
『イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。』
(1)つばで泥を作り、盲人の目に塗った・・・(6節)
アダムを創造した時と似ている
『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』 (創世記2:7)
Ⅱパリサイ人と2つの理由で対立した
①この日が安息日であった。
②口伝律法に、安息日に禁じるわざに、つばで作った泥を塗ることが入っていた。イエスの愛が人の規則を超えた。
(2)シロアムの池に行って目を洗うように命じた・・・(7節)
『「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。』 (7節)
「シロアム」とは、「遣わされた者」という意味である。父なる神から使わされたイエスを暗示。
4、いやしの後のできごと (8節~12節)
(1)「人違いではないか?」と議論・・・(8節~9節)
本人だという意見のほかに、「別人ではないか?!」という意見があった。人生を二分するような出来事だったゆえに、様相が大きく変わっていたのでは?
しかし、本人は「私がその人です」と言った。
(2)「当人なら、どうやって目が開いたのか?」と問うユダヤ人・・・(10節~11節)
盲人はイエスを知らなかったし、見ていない。だから、『イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。』 (11節)とありのままを語った。
(3)「イエスはどこにいるのか」と問うユダヤ人・・・(12節)
イエスを見たこともないし、今どこに居るのかわからない。『また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。』 (12節)
「イエスを知らない」ということは、肉体の目は開いたが、霊の目は開いていない。救われていない。
結論
1、神の栄光が現されるためである
①盲人は絶望的な状態ではあるが、盲目であることでイエスがいやし主であることが現された。
②神は悪を創造することはないが、悪を用いて神の栄光を現すことができる。
③試練に遭った時には、神が語る第三の答えがあることを思い出せ。
2、シロアムの池
イエスがシロアム。イエスは、 『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』 (マタイ11:28~30)と語られている。イエスにのもとに行き、イエスに頼れ。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書9章1節~12節」
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。
説教題:「盲人の目を開くイエス①」
聖書箇所:ヨハネの福音書9章1節~12節
説教者:菅野直基牧師
イエスの群集への説教を聞いて、イエスを信じたユダヤ人たちに、小グループでやり取りをしながら教えをしましたが、結果、イエスを拒否し、石を投げようとするという始末。イエスは宮から出て行かれました。第一サムエル4章の「イ・カボデ」と同じように、「栄光が去った」状態。宮を去ったイエスは、通りすがりに立ち止まって、生まれつきの盲人に目をとめられました。イエスは、必要のある人に関心を持たれます。弟子たちと神学問答をし、盲人の目をいやされました。今日はこの箇所から学びます。
1、イエスの選び (1節)
『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。』
(1)盲人は他人の慈善に頼らなければ生きていけない
(2)イエスは、最も絶望的な人に目をとめ、選ばれた
2、神学問答 (2節~5節)
(1)弟子たちは、盲人になった理由を聞いた・・・(2節)
①彼自身の罪が原因なのか? ②彼の両親の罪が原因なのか?
罪の罰は、本人が負う(エゼキエル書18:4)
『見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。』 (エゼキエル18:4)
親の咎は、子孫の代まで影響を及ぼす(出エジプト記20:5)
『あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、』 (出エジプト20:5)
人は、誕生前に罪を犯すことはあり得るのか?(2節)
パリサイ人は、胎児の時点で罪を犯し得ると考えた。
(2)第三の答え・・・(3節)
イエスは、第一と第二を否定し、第三の答えを出した。「盲目になった原因は、本人の罪のせいでもなく、その両親の罪のせいでもない。神のわざがこの人に現れるためです」と。
パウロの罪の教え(ローマ書3:23)
『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、』 (ローマ3:23)
すべての人は罪を犯している。しかし、特定の病や不幸を、罪の結果であると断じてはならない。
(3)イエスは世の光・・・(4節~5節)
『わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。』 (4節)当時、人は昼間に働き、夜は眠った。もちろん例外はあった。羊飼いや城壁を見張る人は、夜働き、昼休んだ。
イエスが働く3年半の公生涯が昼間で、ご自分が去って行く十字架の死以降を夜にたとえた。
3、盲人のいやし (6節~7節)
『イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。』
(1)つばで泥を作り、盲人の目に塗った・・・(6節)
アダムを創造した時と似ている
『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』 (創世記2:7)
Ⅱパリサイ人と2つの理由で対立した
①この日が安息日であった。
②口伝律法に、安息日に禁じるわざに、つばで作った泥を塗ることが入っていた。イエスの愛が人の規則を超えた。
(2)シロアムの池に行って目を洗うように命じた・・・(7節)
『「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。』 (7節)
「シロアム」とは、「遣わされた者」という意味である。父なる神から使わされたイエスを暗示。
4、いやしの後のできごと (8節~12節)
(1)「人違いではないか?」と議論・・・(8節~9節)
本人だという意見のほかに、「別人ではないか?!」という意見があった。人生を二分するような出来事だったゆえに、様相が大きく変わっていたのでは?
しかし、本人は「私がその人です」と言った。
(2)「当人なら、どうやって目が開いたのか?」と問うユダヤ人・・・(10節~11節)
盲人はイエスを知らなかったし、見ていない。だから、『イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。』 (11節)とありのままを語った。
(3)「イエスはどこにいるのか」と問うユダヤ人・・・(12節)
イエスを見たこともないし、今どこに居るのかわからない。『また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。』 (12節)
「イエスを知らない」ということは、肉体の目は開いたが、霊の目は開いていない。救われていない。
結論
1、神の栄光が現されるためである
①盲人は絶望的な状態ではあるが、盲目であることでイエスがいやし主であることが現された。
②神は悪を創造することはないが、悪を用いて神の栄光を現すことができる。
③試練に遭った時には、神が語る第三の答えがあることを思い出せ。
2、シロアムの池
イエスがシロアム。イエスは、 『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』 (マタイ11:28~30)と語られている。イエスにのもとに行き、イエスに頼れ。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書9章1節~12節」
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。
2016年08月19日
2016年8月7日 日曜礼拝 説教要約
2016年8月7日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「孤独に打ち勝つ秘訣」
聖書箇所:テモテへの手紙第二4章1節~22節
説教者:菅野直基牧師
孤独は、私たちが経験するもっともつらく悲しい感情の一つです。誰からも必要とされず、愛されないと感じることはつらいことです。孤独には、自ら望んで孤独になることもありますが、やもう得ず孤独にさせられることがあります。使徒パウロは、後者でした。今日の聖書箇所は、ローマの獄中で孤独を経験していたパウロが、それを乗り越えていく過程と姿が描かれています。その生き様を通して、孤独を乗り越える秘訣を見出し、実践していきたいものです。
1、孤独の原因
①・・・「変化」
『私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。』 (4:6)と。「注ぎの供え物となります」パウロは、殉教する日が迫っていると察知していました。『私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。』 (4:7~8)テモテに対して、信仰の告白をしました。
②・・・「孤立」
パウロは、ローマの獄中からテモテに手紙を書きました。『あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。』 (4:9)。「13節」では、『上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。』 と語り、「21節」でも、『何とかして、冬になる前に来てください。』 と切々と訴えています。孤独を感じる時、電話やメールや手紙などを出して、お互いに孤独を埋め合わせていきましょう。
③・・・「対立」
パウロは、『銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。』 (4:14)と書いています。パウロは、誤解され、するどい誹謗中傷を受けていました。
④・・・「拒絶」
『私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。』 (4:16)パウロは、裁判で誰からも味方してもらえず、弁護士すら居なくなってしまいました。
2、孤独の否定的対処法
①・・・「仕事中毒」
②・・・「買い物中毒」
③・・・「浮気・不倫」
④・・・「酒・薬物」
3、孤独の肯定的対処法
パウロは、孤独に対して、肯定的に対処しました。
①・・・「賢い時間活用」
パウロは、目標に向かって最善を尽くしました。孤独を肯定的に受け止め、一人の時間を最大限に活用して、時間を賢く使いました。『私はテキコをエペソに遣わしました。』 (4:12)また、『あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。』 (4:13)と手紙を書き送りました。『今の時を生かして用いなさい。』 (エペソ5:16)はパウロの言葉です。もし、パウロが自由の身であれば、町で聖書を語り合ったり、円形劇場で伝道説教をしたことでしょう。もしそうであれば、パウロが書いた手紙を聖書として読むことができなかったかも知れません。神は、万事を益に変えて下さるお方です。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』 (ローマ8:28)活動的なパウロに手紙を執筆してもらうためには、独房に入れられて、孤独になることが一番でした。パウロは、今置かれた状況をそのまま受け入れて、「今、ここでできる最善を行おう!」と決意し、実行に移しました。ここに、孤独に対する肯定的な対処法があります。
②・・・「ダメージを最小限に食い止める」
『私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。』 (4:16)パウロは、事実を直視しつつも、自分を傷つけた人たちを赦し、神に、『彼らがそのためにさばかれることのありませんように。』 (4:16)と祈りました。ダメージが最小限に食い止められました。
③・・・「神を思い起こす」
パウロは、『しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。』 (4:17)と語りました。神を思い出しました。『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』 (詩篇46:1)と書かれています。『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。』 (ヨハネ14:18)『主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』 (ヘブル13:5)とあります。ダビデは、『私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。』 (詩篇139:7~8)と語りました。主君サウルに追われ、いのちを狙われて、洞窟の中に身を潜めながらも、神に祈り、神との関係を深めました。
④・・・「人に仕える」
パウロは、他の人の必要を見出し、福音を語り、神に立ち返らせることで人々に仕えました。『主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。』 (4:17)人々の目には、パウロが孤独に映ったでしょう。しかし、実際は孤独ではありませんでした。パウロは、最期の最期まで人々に仕え続けました。理解してくれる人がいなくなったら、また別のところに行き、別の人を見つけて仕えました。拒絶されても、敵対されても、神と共に人々に仕え続けました。孤独を埋め合わせるのは、人から受ける愛より、人に与える愛です。
4、孤独を満たすもの
孤独は、神によって満たされます。人間の心には、神によってしか埋めることのできない空洞があります。イエスは、十字架で処刑される前日に、ゲツセマネの園で神から切り離されるという暗黒を味わいました。『ご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。』 (ルカ22:41~44)「ゲツセマネ」とは、アラム語で、「オリーブの油搾り」を意味します。イエスは、そこでご自身の血を搾り出しながら、人類の罪の刑罰として、父なる神から分離される孤独を味わいました。イエスは、十字架につけられる肉体的屈辱や痛みを恐れていたのではありません。イエスの恐れは、今まで一度も味わったことのない父なる神から切り離され、捨てられることに対してです。三位一体の子なるイエスが、私たちの孤独を背負って父なる神から引き離されたのです。イエスこそ、私たちの孤独を本当の意味で知っておられる方です。/イエスは、いつでも、どこにいても、どんな状況の中に置かれていても、①「わたしはあなたの孤独を知っている」 ②「わたしはあなたを愛している」 ③「わたしはあなたを助けたい」と手を差し伸べておられます。どうぞ、祈りを通してイエスの差し伸べられた手を握り、神に立ち返り、神で孤独を感じる心の空洞を埋めて頂き、今度は、他の孤独に苦しむ人に手を差し伸べていきましょう。孤独を知り、孤独を満たされたあなただけができる奉仕があるのです。
結論
①あなたにとっての孤独はどんな時ですか?
②あなたの周りに孤独な人は居ますか?その人たちを助けるために何ができるでしょうか?
★今日の聖書箇所 「テモテへの手紙第二4章1節~22節」
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
4:9 あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。
4:10 デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。
4:11 ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
4:12 私はテキコをエペソに遣わしました。
4:13 あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。
4:14 銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。
4:15 あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。
4:16 私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。
4:17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。
4:18 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。
4:19 プリスカとアクラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。
4:20 エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。
4:21 何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。
説教題:「孤独に打ち勝つ秘訣」
聖書箇所:テモテへの手紙第二4章1節~22節
説教者:菅野直基牧師
孤独は、私たちが経験するもっともつらく悲しい感情の一つです。誰からも必要とされず、愛されないと感じることはつらいことです。孤独には、自ら望んで孤独になることもありますが、やもう得ず孤独にさせられることがあります。使徒パウロは、後者でした。今日の聖書箇所は、ローマの獄中で孤独を経験していたパウロが、それを乗り越えていく過程と姿が描かれています。その生き様を通して、孤独を乗り越える秘訣を見出し、実践していきたいものです。
1、孤独の原因
①・・・「変化」
『私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。』 (4:6)と。「注ぎの供え物となります」パウロは、殉教する日が迫っていると察知していました。『私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。』 (4:7~8)テモテに対して、信仰の告白をしました。
②・・・「孤立」
パウロは、ローマの獄中からテモテに手紙を書きました。『あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。』 (4:9)。「13節」では、『上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。』 と語り、「21節」でも、『何とかして、冬になる前に来てください。』 と切々と訴えています。孤独を感じる時、電話やメールや手紙などを出して、お互いに孤独を埋め合わせていきましょう。
③・・・「対立」
パウロは、『銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。』 (4:14)と書いています。パウロは、誤解され、するどい誹謗中傷を受けていました。
④・・・「拒絶」
『私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。』 (4:16)パウロは、裁判で誰からも味方してもらえず、弁護士すら居なくなってしまいました。
2、孤独の否定的対処法
①・・・「仕事中毒」
②・・・「買い物中毒」
③・・・「浮気・不倫」
④・・・「酒・薬物」
3、孤独の肯定的対処法
パウロは、孤独に対して、肯定的に対処しました。
①・・・「賢い時間活用」
パウロは、目標に向かって最善を尽くしました。孤独を肯定的に受け止め、一人の時間を最大限に活用して、時間を賢く使いました。『私はテキコをエペソに遣わしました。』 (4:12)また、『あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。』 (4:13)と手紙を書き送りました。『今の時を生かして用いなさい。』 (エペソ5:16)はパウロの言葉です。もし、パウロが自由の身であれば、町で聖書を語り合ったり、円形劇場で伝道説教をしたことでしょう。もしそうであれば、パウロが書いた手紙を聖書として読むことができなかったかも知れません。神は、万事を益に変えて下さるお方です。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』 (ローマ8:28)活動的なパウロに手紙を執筆してもらうためには、独房に入れられて、孤独になることが一番でした。パウロは、今置かれた状況をそのまま受け入れて、「今、ここでできる最善を行おう!」と決意し、実行に移しました。ここに、孤独に対する肯定的な対処法があります。
②・・・「ダメージを最小限に食い止める」
『私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。』 (4:16)パウロは、事実を直視しつつも、自分を傷つけた人たちを赦し、神に、『彼らがそのためにさばかれることのありませんように。』 (4:16)と祈りました。ダメージが最小限に食い止められました。
③・・・「神を思い起こす」
パウロは、『しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。』 (4:17)と語りました。神を思い出しました。『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』 (詩篇46:1)と書かれています。『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。』 (ヨハネ14:18)『主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』 (ヘブル13:5)とあります。ダビデは、『私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。』 (詩篇139:7~8)と語りました。主君サウルに追われ、いのちを狙われて、洞窟の中に身を潜めながらも、神に祈り、神との関係を深めました。
④・・・「人に仕える」
パウロは、他の人の必要を見出し、福音を語り、神に立ち返らせることで人々に仕えました。『主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。』 (4:17)人々の目には、パウロが孤独に映ったでしょう。しかし、実際は孤独ではありませんでした。パウロは、最期の最期まで人々に仕え続けました。理解してくれる人がいなくなったら、また別のところに行き、別の人を見つけて仕えました。拒絶されても、敵対されても、神と共に人々に仕え続けました。孤独を埋め合わせるのは、人から受ける愛より、人に与える愛です。
4、孤独を満たすもの
孤独は、神によって満たされます。人間の心には、神によってしか埋めることのできない空洞があります。イエスは、十字架で処刑される前日に、ゲツセマネの園で神から切り離されるという暗黒を味わいました。『ご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。』 (ルカ22:41~44)「ゲツセマネ」とは、アラム語で、「オリーブの油搾り」を意味します。イエスは、そこでご自身の血を搾り出しながら、人類の罪の刑罰として、父なる神から分離される孤独を味わいました。イエスは、十字架につけられる肉体的屈辱や痛みを恐れていたのではありません。イエスの恐れは、今まで一度も味わったことのない父なる神から切り離され、捨てられることに対してです。三位一体の子なるイエスが、私たちの孤独を背負って父なる神から引き離されたのです。イエスこそ、私たちの孤独を本当の意味で知っておられる方です。/イエスは、いつでも、どこにいても、どんな状況の中に置かれていても、①「わたしはあなたの孤独を知っている」 ②「わたしはあなたを愛している」 ③「わたしはあなたを助けたい」と手を差し伸べておられます。どうぞ、祈りを通してイエスの差し伸べられた手を握り、神に立ち返り、神で孤独を感じる心の空洞を埋めて頂き、今度は、他の孤独に苦しむ人に手を差し伸べていきましょう。孤独を知り、孤独を満たされたあなただけができる奉仕があるのです。
結論
①あなたにとっての孤独はどんな時ですか?
②あなたの周りに孤独な人は居ますか?その人たちを助けるために何ができるでしょうか?
★今日の聖書箇所 「テモテへの手紙第二4章1節~22節」
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
4:9 あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。
4:10 デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。
4:11 ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
4:12 私はテキコをエペソに遣わしました。
4:13 あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。
4:14 銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。
4:15 あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。
4:16 私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。
4:17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。
4:18 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。
4:19 プリスカとアクラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。
4:20 エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。
4:21 何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。
2016年07月31日
2016年7月31日 日曜礼拝 説教要約
2016年7月31日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「解放者であるイエス・キリスト②」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章51節~59節
説教者:菅野直基牧師
今日は前回の続きです。イエスは宮の中で説教をしました。前回は、「イエスは罪からの解放者」と「イエスは悪魔からの解放者」の2つを学び、今回は、「イエスは死からの解放者」について学びます。聖書は、『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。』 (31節)と語りますが、イエスは信じたユダヤ人たちの化けの皮を剥ぎ取るかのように、核心部に触れますと、彼らは反発し、さらに、59節を見ると『すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。』 とあります。そのメッセージについて今日も学びます。
1、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」① (51~53節)
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」』
(1)イエスの教え①・・・(51節)
Ⅰイエスの教えは「福音」である(51節)
Ⅱ「まことに、まことに」の原文は、「アーメン、アーメン」である(51節)
イエスは、重要なことを語る前によく使われた言い回しである、ヨハネの福音書で25回使われている。
Ⅲ福音の内容(51節)
ⅰ、「決して死を見ることがありません」。この「死」は、「肉体の死」ではなく、「霊的永遠の死」のことである。霊的永遠の死とは、永遠に神から切り離されることであり、ヨハネは、3章16節で「滅び」という言葉を使って語っている。
ⅱ、「だれでもわたしのことばを守るなら」。これは、「わざによる救い」を教えているのではなく、信仰の応答であり、信仰を行動で表すことである。行動に現れない信仰は口先だけであり、偽りであるか、信じていると思い込んでいるかどちらかである。
ⅲ、こういう宣言ができるのは神だけである。これは、イエスが「わたしは神である」といっているのと等しいことである。
(2)ユダヤ人の反応①・・・(52節~53節)
Ⅰユダヤ人の誤解(52節)
「死を味わうことがない」を、霊的永遠の死ではなく、肉体の死のことと誤解して受け取った。もし、死なない人がいるとしたら、アブラハムや預言者くらいなものだが、アブラハムも預言者も死んだのだ。イエスの教えは矛盾そのものだと応答した。
Ⅱイエスに対する決め付け(52節)
ⅰ、イエスは気違いだ。ⅱ、イエスは悪霊につかれている。ⅲ、以前よりも、もっと悪霊につかれていると確信に至った。
Ⅲイエスがアブラハムより偉大なはずがない(53節)
Ⅳアブラハムも預言者も死んだ(53節)
ⅰ、アブラハムも預言者も、人を救う以前に自分も救えずに死んだ。ⅱ、イエスは自分だけではなく、人を救おうというのか。ⅲ、イエスは自分を誰だと思うのか? ⅳ、イエスは自己顕示欲の塊だ。
Ⅴ誤解しているが、実際はどうなのか?(53節)
ⅰ、イエスは、アブラハムより偉大である。ⅱ、イエスは、本当の事をいっているだけで、自己顕示欲で語っているのではない。
2、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」② (54節~57節)
『イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」』
(1)イエスの教え②・・・(54節~56節)
ⅰユダヤ人の誤解を解く(54節)
イエスは、少し前の8:50で、「わたしはわたしの栄誉を求めません。」といわれたが、「自分で自分の栄光を求めることは空しいことである。父なる神がわたしを弁護され、わたしに栄光を与えられる」と語られた。私たちもこう生きたいものです。
ⅱユダヤ人(あなたがた)は偽り者である(54節~55節)
ⅰ、「あなたがたは天の父を『私たちの神である』といっているがそうではない。」 ⅱ、「あなたがたは、律法を守っていないし、神を知っていない。」 ⅲ、「あなたがたの父は悪魔である。悪魔が偽り者であるあるように、あなたがたも偽り者だ。」と語った。
Ⅲイエス(わたし)には偽りがない(54節~55節)
ⅰ、「わたしは父を知っている。」 ⅱ、「わたしは父のみことばを守っている。」 ⅲ、「あなたがたは、わたしと父が一つであることを否定するが、それは事実だ。」 ⅳ、「ゆえに、わたしが『父を知らない』というなら、わたしは偽り者となるのだ。」と語った。
Ⅳユダヤ人が「アブラハム」の名を出すので、それに応答して語る(56節)
ⅰ、「あなたがたの父アブラハム」といったは、名実を指していったのではなく、血縁関係のある子孫であるということをいったに過ぎない。ⅱ、「わたしの日」とは、イエスがこの地上に誕生し、救いのみわざを成し遂げる日、つまり今のことである。
Ⅴアブラハムは、いつイエスを見て喜んだのか?(56節)
ⅰ、アブラハムは、信仰によってイエスの受肉、降誕と十字架による救いの完成を知り、それを見た。ⅱ、アブラハムは、神の命により、イサクを生贄として捧げた。イサク奉献は、イエスの死と復活を予表するできごとであった。そのできごとの中で見たか。
(2)ユダヤ人の反応②・・(57節)
ⅰユダヤ人の誤解(57節)
ⅰ、「アブラハムがイエスを見た」といったのに、「イエスがアブラハム見た」と間違って受け止めている。ⅱ、イエスとアブラハムは同時代に生きていないので、「見るはずはない」と決めてかかった。ⅲ、イエスの年齢は33歳くらい。ⅳ、50才に満たない。ⅴ、アブラハムは、イエスのこの時代から2000年も前の人である。ⅵ、「そんなバカな話があるか」と考えた。
3、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」③ (58節~59節)
『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』
(1)イエスの教え③・・・(58節)
ⅰ再び、「まことに、まことに(アーメン、アーメン)」と語る(58節)
イエスは、「大切なことを語るので、よく聞いて下さい」と、注意喚起する意味でこのフレーズを度々使った。重要な内容である。
ⅱイエスの永遠性、神性が掲示される(58節)
イエスは、アブラハムが生まれる前から存在するというのは、永遠の存在者である。つまり、「わたしは神である」という宣言だ。
(2)ユダヤ人の反応③・・・(59節)
ⅰ誤解なく受け取った(59節)
ⅰ、イエスが「わたしは神である」と宣言したと受け取った。ⅱ、ユダヤでは、「わたしはキリストである」と語ることは冒とく罪にはあたらないが、ⅲ、「わたしは神である」と語ったり、自分を神と等しく扱うことは冒とく罪にあたり、ⅳ、石打の刑にあたった。ⅴ、だから彼らは、イエスに石を投げつけようとした。
ⅱしかし、イエスは逮捕されなかった(59節)
ここでは語られていないが、「イエスの時」つまり、「イエスが十字架につけられる時」がまだ来ていなかったからである。
結論
1、イエスの神宣言
(1)『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」』 (ヨハネ8:58)
①「まことに、まことに」・・・「アーメン、アーメン」
②「わたしはいるのです」・・・新共同訳では、「わたしはある」
(2)『神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」』 (出エジプト3:14)
①「わたしはある」・・・神の永遠性を指し示す神の御名である。
(3)イエスは、この「わたしはある」という名前を使われたのである
イエスは、紛れもなく、「わたしは神である」と神宣言されたのである
(4)イエスは、この神宣言通りのお方である
2、イエスの神宣言に対してどう応えるか?
(1)信じる
①イエスを「救い主、人生の主」と信じるなら、死を見ることがない。
②罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちを受ける。
③永遠のほろびから解放される。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』 (ヨハネ3:16)
(2)拒否する
①ユダヤ人たちは、ご自分の前に立つ神であるイエスを認めなかった。
②認めないだけではなく、石を投げつけようとした。
③それゆえ、『イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』 (59節)
3、イ・カボテ(栄光は去った)
(1)「イエスが宮から出て行かれた」というのは、「イ・カボデ(栄光は去った)」であった。
(2)『彼女は、「栄光がイスラエルから去った。」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは神の箱が奪われたこと、それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。彼女は、「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。」と言った。』 (第一サムエル4:21~22)
(3)エゼキエル10章~11章では、主の栄光が宮から去ったことが書かれている。
4、イエスはあなたに取って誰なのか?
(1)イエスを信じるなら、あなたという神の神殿の中に、イエスという神の栄光(シャカイナ・グローリー)が住まわれる。
(2)『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』 (第一コリント3:16)
(3)イエスを拒否するなら、あなたという神の神殿からイエスという神の栄光(シャカイナ・グローリー)が去り、切り離される。
(4)人生における空しさ、つらさ、恐れなどの原因は、神の栄光が去った「イ・カボデ」が原因である。
(5)悔い改め、イエスを信じ、神に心を向け、神を求めよう。再び、あなたという神の神殿に神の栄光が満ち溢れるようになる。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書8章51節~59節」
8:51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
8:55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
説教題:「解放者であるイエス・キリスト②」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章51節~59節
説教者:菅野直基牧師
今日は前回の続きです。イエスは宮の中で説教をしました。前回は、「イエスは罪からの解放者」と「イエスは悪魔からの解放者」の2つを学び、今回は、「イエスは死からの解放者」について学びます。聖書は、『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。』 (31節)と語りますが、イエスは信じたユダヤ人たちの化けの皮を剥ぎ取るかのように、核心部に触れますと、彼らは反発し、さらに、59節を見ると『すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。』 とあります。そのメッセージについて今日も学びます。
1、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」① (51~53節)
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」』
(1)イエスの教え①・・・(51節)
Ⅰイエスの教えは「福音」である(51節)
Ⅱ「まことに、まことに」の原文は、「アーメン、アーメン」である(51節)
イエスは、重要なことを語る前によく使われた言い回しである、ヨハネの福音書で25回使われている。
Ⅲ福音の内容(51節)
ⅰ、「決して死を見ることがありません」。この「死」は、「肉体の死」ではなく、「霊的永遠の死」のことである。霊的永遠の死とは、永遠に神から切り離されることであり、ヨハネは、3章16節で「滅び」という言葉を使って語っている。
ⅱ、「だれでもわたしのことばを守るなら」。これは、「わざによる救い」を教えているのではなく、信仰の応答であり、信仰を行動で表すことである。行動に現れない信仰は口先だけであり、偽りであるか、信じていると思い込んでいるかどちらかである。
ⅲ、こういう宣言ができるのは神だけである。これは、イエスが「わたしは神である」といっているのと等しいことである。
(2)ユダヤ人の反応①・・・(52節~53節)
Ⅰユダヤ人の誤解(52節)
「死を味わうことがない」を、霊的永遠の死ではなく、肉体の死のことと誤解して受け取った。もし、死なない人がいるとしたら、アブラハムや預言者くらいなものだが、アブラハムも預言者も死んだのだ。イエスの教えは矛盾そのものだと応答した。
Ⅱイエスに対する決め付け(52節)
ⅰ、イエスは気違いだ。ⅱ、イエスは悪霊につかれている。ⅲ、以前よりも、もっと悪霊につかれていると確信に至った。
Ⅲイエスがアブラハムより偉大なはずがない(53節)
Ⅳアブラハムも預言者も死んだ(53節)
ⅰ、アブラハムも預言者も、人を救う以前に自分も救えずに死んだ。ⅱ、イエスは自分だけではなく、人を救おうというのか。ⅲ、イエスは自分を誰だと思うのか? ⅳ、イエスは自己顕示欲の塊だ。
Ⅴ誤解しているが、実際はどうなのか?(53節)
ⅰ、イエスは、アブラハムより偉大である。ⅱ、イエスは、本当の事をいっているだけで、自己顕示欲で語っているのではない。
2、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」② (54節~57節)
『イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」』
(1)イエスの教え②・・・(54節~56節)
ⅰユダヤ人の誤解を解く(54節)
イエスは、少し前の8:50で、「わたしはわたしの栄誉を求めません。」といわれたが、「自分で自分の栄光を求めることは空しいことである。父なる神がわたしを弁護され、わたしに栄光を与えられる」と語られた。私たちもこう生きたいものです。
ⅱユダヤ人(あなたがた)は偽り者である(54節~55節)
ⅰ、「あなたがたは天の父を『私たちの神である』といっているがそうではない。」 ⅱ、「あなたがたは、律法を守っていないし、神を知っていない。」 ⅲ、「あなたがたの父は悪魔である。悪魔が偽り者であるあるように、あなたがたも偽り者だ。」と語った。
Ⅲイエス(わたし)には偽りがない(54節~55節)
ⅰ、「わたしは父を知っている。」 ⅱ、「わたしは父のみことばを守っている。」 ⅲ、「あなたがたは、わたしと父が一つであることを否定するが、それは事実だ。」 ⅳ、「ゆえに、わたしが『父を知らない』というなら、わたしは偽り者となるのだ。」と語った。
Ⅳユダヤ人が「アブラハム」の名を出すので、それに応答して語る(56節)
ⅰ、「あなたがたの父アブラハム」といったは、名実を指していったのではなく、血縁関係のある子孫であるということをいったに過ぎない。ⅱ、「わたしの日」とは、イエスがこの地上に誕生し、救いのみわざを成し遂げる日、つまり今のことである。
Ⅴアブラハムは、いつイエスを見て喜んだのか?(56節)
ⅰ、アブラハムは、信仰によってイエスの受肉、降誕と十字架による救いの完成を知り、それを見た。ⅱ、アブラハムは、神の命により、イサクを生贄として捧げた。イサク奉献は、イエスの死と復活を予表するできごとであった。そのできごとの中で見たか。
(2)ユダヤ人の反応②・・(57節)
ⅰユダヤ人の誤解(57節)
ⅰ、「アブラハムがイエスを見た」といったのに、「イエスがアブラハム見た」と間違って受け止めている。ⅱ、イエスとアブラハムは同時代に生きていないので、「見るはずはない」と決めてかかった。ⅲ、イエスの年齢は33歳くらい。ⅳ、50才に満たない。ⅴ、アブラハムは、イエスのこの時代から2000年も前の人である。ⅵ、「そんなバカな話があるか」と考えた。
3、「イエスの教え」と「ユダヤ人の反応」③ (58節~59節)
『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』
(1)イエスの教え③・・・(58節)
ⅰ再び、「まことに、まことに(アーメン、アーメン)」と語る(58節)
イエスは、「大切なことを語るので、よく聞いて下さい」と、注意喚起する意味でこのフレーズを度々使った。重要な内容である。
ⅱイエスの永遠性、神性が掲示される(58節)
イエスは、アブラハムが生まれる前から存在するというのは、永遠の存在者である。つまり、「わたしは神である」という宣言だ。
(2)ユダヤ人の反応③・・・(59節)
ⅰ誤解なく受け取った(59節)
ⅰ、イエスが「わたしは神である」と宣言したと受け取った。ⅱ、ユダヤでは、「わたしはキリストである」と語ることは冒とく罪にはあたらないが、ⅲ、「わたしは神である」と語ったり、自分を神と等しく扱うことは冒とく罪にあたり、ⅳ、石打の刑にあたった。ⅴ、だから彼らは、イエスに石を投げつけようとした。
ⅱしかし、イエスは逮捕されなかった(59節)
ここでは語られていないが、「イエスの時」つまり、「イエスが十字架につけられる時」がまだ来ていなかったからである。
結論
1、イエスの神宣言
(1)『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」』 (ヨハネ8:58)
①「まことに、まことに」・・・「アーメン、アーメン」
②「わたしはいるのです」・・・新共同訳では、「わたしはある」
(2)『神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」』 (出エジプト3:14)
①「わたしはある」・・・神の永遠性を指し示す神の御名である。
(3)イエスは、この「わたしはある」という名前を使われたのである
イエスは、紛れもなく、「わたしは神である」と神宣言されたのである
(4)イエスは、この神宣言通りのお方である
2、イエスの神宣言に対してどう応えるか?
(1)信じる
①イエスを「救い主、人生の主」と信じるなら、死を見ることがない。
②罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちを受ける。
③永遠のほろびから解放される。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』 (ヨハネ3:16)
(2)拒否する
①ユダヤ人たちは、ご自分の前に立つ神であるイエスを認めなかった。
②認めないだけではなく、石を投げつけようとした。
③それゆえ、『イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』 (59節)
3、イ・カボテ(栄光は去った)
(1)「イエスが宮から出て行かれた」というのは、「イ・カボデ(栄光は去った)」であった。
(2)『彼女は、「栄光がイスラエルから去った。」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは神の箱が奪われたこと、それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。彼女は、「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。」と言った。』 (第一サムエル4:21~22)
(3)エゼキエル10章~11章では、主の栄光が宮から去ったことが書かれている。
4、イエスはあなたに取って誰なのか?
(1)イエスを信じるなら、あなたという神の神殿の中に、イエスという神の栄光(シャカイナ・グローリー)が住まわれる。
(2)『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』 (第一コリント3:16)
(3)イエスを拒否するなら、あなたという神の神殿からイエスという神の栄光(シャカイナ・グローリー)が去り、切り離される。
(4)人生における空しさ、つらさ、恐れなどの原因は、神の栄光が去った「イ・カボデ」が原因である。
(5)悔い改め、イエスを信じ、神に心を向け、神を求めよう。再び、あなたという神の神殿に神の栄光が満ち溢れるようになる。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書8章51節~59節」
8:51 まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」
8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない。』と言うのです。
8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」
8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。
8:55 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
2016年07月31日
2016年7月24日 日曜礼拝 説教要約
2016年7月24日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「解放者であるイエス・キリスト①」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章31節~50節
説教者:菅野直基牧師
先週のメッセーシは、イエスが宮の中での説教をしました。説教を聞いた多くのユダヤ人がイエスを信じました。今日は、信じたユダヤ人に語った説教です。『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。』 (31節)とあります。共に学びたいと思います。
1、イエスは罪からの解放者 (31節~39節)
(1)31節~32節・・・『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」』
①信じたユダヤ人を「本当の弟子」になるように導いた
弟子とは、「学ぶ者」という意味だが、イエスは「本当の弟子」になるように導かれた。本当の弟子とは、「イエスに身を預ける者」です。本当の弟子となり、「わたしのことばにとどまれ」と招かれた。イエスは、私たちにも、同じように招かれているのである。
②本当の弟子の祝福
本当の弟子は、イエスのことばにとどまり、真理を知る。真理がその人を自由にする。ギリシャ的な意味における「真理」は、「ある物事の実態」。イエスが語る真理は、「神の実態であるご自分」を語りました。ユダヤ的な意味における「真理」は、「約束に対する忠実さ」。神は約束に忠実なお方。イエスも同じお方。真理であるイエスを知ることが人を自由にする。「信じて知る」と学んできました。(1)信じ、(2)イエスに学び、(3)イエスに身を預け、(4)イエスのことばにとどまり、(5)真理を知り、(6)自由になるのです。
(2)33節・・・『彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどう
して、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」』
①イエスのことばに反発するユダヤ人
「自由にします」と聞いたユダヤ人は、「奴隷扱い」されて腹を立てた。しかし、忘れているか、嘘をついているかのどちらかです。ユダヤ人たちは、歴史的に見ると、(1)エジプト、(2)アッシリア、(3)バビロン、(4)ペルシャの奴隷となり、現在は(5)ローマの奴隷となっているから。
②ユダヤ人の無知
ユダヤ人は、「私たちはアブラハムの子孫」とプライドを持ち、自動的に神の国に入れると誤解して信じていた。本当の弟子になるなら、パリサイ人の教えを捨て、イエスのことばを受け入れたはず。使徒パウロは、『私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』 (ピリピ3:8)と語りました。ユダヤ人たちは、自分たちが罪と悪魔の奴隷であることに気づいていなかったのです。
(3)34節~38節・・・『イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」』
①イエスの教え「あなたがたは罪の奴隷だ」
罪を行う者は「罪の奴隷」である。ここでは罪が擬人法で語られている。『罪から来る報酬は死です。』 (ローマ6:23)私たちも生まれながら罪の奴隷。
②奴隷と息子の身分の違い
奴隷には身分の保証がない。息子は身分が保証されている。イエスを信じた者は神の子となり、身分が保証され、自由にされている。
③ユダヤ人がアブラハムの血縁の子孫であることを認めているが・・・
イエスは、ユダヤ人たちがアブラハムの子孫であることは百も承知していた。しかし、「アブラハムの信仰を持っていない」と語り、その証拠として、「あなたがたはわたしを殺そうとしています。」と指摘した。アブラハムの信仰を持っているならそんなことするはずがないからだ。
④ユダヤ人がイエスを殺そうとする理由
イエスは、父なる神と一つであり、父のもとで見たことを語った。しかし、耳を貸さないばかりか殺そうとしている。つまり、「あなたがたには別の父がいて、その父から示されたことを行っている」と指摘した。別の父についてこのあと指摘されるが、彼らも予想できたはず。
(4)39節・・・『彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」』
①ユダヤ人たちは、再びアブラハムの子孫であると主張
ユダヤ人たちは、「アブラハムの子孫であるので、私たちは奴隷ではない。」と言い張った。ゆえに、罪からの解放者イエスがわからなかった。
2、イエスは悪魔からの解放者 (39節~50節)
(1)39節~41節・・・『イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」』
①子は父のように考え、父のように行動するものだ
②アブラハムのように行動していない
イエスは、「アブラハムはわたしを殺そうとしなかった。なのにあなたがたは、神の真理を語るわたしを殺そうとしている。アブラハムは、神を信じたことで義と認められ、真理に従って歩んだ。あなたがたはアブラハムのように行動していない」と指摘した。
③アブラハムでない別の父のわざを行っている
続いてイエスは、「あなたがたの父はアブラハムではない。あなたがたは別の父のわざを行っている」と指摘。「悪魔が父」と暗示。
(2)41節・・・『彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」』
①イエスに侮辱されたと考え反論
アブラハムのほかに別の父がいることを指摘されたことで、「母親の不品行によって産まれた者ではない」と反論。不品行は偶像崇拝を指す。
②暗にイエスを批判する
当時、「イエスの母マリアは、ローマ兵と関係を持ってイエスを産んだ」と噂された。全くの誤解であるが、昔も今も、処女降誕を信じられない人が多い。
(3)42節~43節・・・『イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。』
①ユダヤ式家族関係を引き合いに語る
ユダヤ人の家族は、互いに愛し合うもの。神が父なら神を愛する。父を愛するなら、父が派遣したイエスを愛するはずだと指摘。
②イエスのことばが理解できない理由
ユダヤ人が、イエスの語る言葉を理解できない理由は、理屈を超えて理解できなかった。『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。』 (第一コリント2:14)
(4)44節~47節・・・『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」』
①ついに「あなたがたの父は悪魔だ」と指摘
イエスは、悪魔に聞き、悪魔に習って行動しているという意味において、「あなたがたの父は悪魔だ」と語られた。悪魔は、『ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。』 (ヨハネ10:10)「あなたがたは、その悪魔に操られてわたしを殺そうとしている」と。
②イエスに「罪がある」と誰も指摘できない
イエスは、「わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」と語った。イエスは、モーセの律法に何一つ違反していないし、正しいことを語っているのにイエスに従っていない。何の言い訳もできない状態だ。
③イエスに従えない理由
イエスに従えない理由は、「あなたがたが悪魔から出ているからだ」。
(5)48節・・・『ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」』
①怒って反論するユダヤ人
イエスのことばにまともに言い返せず、形成が不利となり、怒って罵倒した。ユダヤ人は、サマリヤ人を悪霊と同一視していた。ゆえに、「悪霊につかれている」という意味で「あなたはサマリヤ人だ」と語った。その根拠は、他の指導者が「イエスは悪霊につかれている」という意見を採用した。
(6)49節~50節・・・『イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。』
①イエスの教え
①「父なる神の御心だけを行っている」 ②「わたしを信じない者を父がさばかれる」 ③「父はわたしに栄誉を与える」と語った。
②ユダヤ人は、「イエス」を信じたはずだが、「解放者イエス」を信じることができなかった
結論
1、悪魔はどのように働くか?
①人々が悪霊につかれていると気づかせないで、意のままにコントロールする。②悪魔は嘘つきで殺人者である。③悪魔は自分の存在を隠して、イエスを悪霊つきと呼んだ。嘘つきである。④イエスを殺そうとした。⑤イエスなき現在は、クリスチャンやユダヤ人を迫害する。⑥『それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』 (第二コリント4:3~4)
2、アブラハムのわざとは?
①『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』 (創世記15:6) ②アブラハムのわざは、神のことばを信じること。③ユダヤ人がイエスを通して語られた神のことばを信じない理由は、神の子でないからだ。④イエスを信じるなら罪から解放される。⑤アブラハムは神を信じるだけで義と認められたが、モリヤ山でイサクを神に捧げることで信仰を証明した。⑥これが、ヤコブ書が教える信仰と行いの関係である。⑦マルチン・ルーテルは、当初このことが理解できなかったが、後日理解し、「ワラの書簡発言」を撤回した。
3、奴隷と息子
①イエスを信じるなら、罪と悪魔の奴隷から解放され、神の子とされる。②神の子とされるとは、神の養子とされるという意味である。③奴隷と息子の対比は、イシュマエルとイサクの対比で表されている。④『それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」』 (創世記21:10) ⑤『しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。』 (ガラテヤ4:30~31)
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書8章31節~50節」
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
8:39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。
8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
8:41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
8:45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
8:46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
8:48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
8:49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
8:50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
説教題:「解放者であるイエス・キリスト①」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章31節~50節
説教者:菅野直基牧師
先週のメッセーシは、イエスが宮の中での説教をしました。説教を聞いた多くのユダヤ人がイエスを信じました。今日は、信じたユダヤ人に語った説教です。『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。』 (31節)とあります。共に学びたいと思います。
1、イエスは罪からの解放者 (31節~39節)
(1)31節~32節・・・『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」』
①信じたユダヤ人を「本当の弟子」になるように導いた
弟子とは、「学ぶ者」という意味だが、イエスは「本当の弟子」になるように導かれた。本当の弟子とは、「イエスに身を預ける者」です。本当の弟子となり、「わたしのことばにとどまれ」と招かれた。イエスは、私たちにも、同じように招かれているのである。
②本当の弟子の祝福
本当の弟子は、イエスのことばにとどまり、真理を知る。真理がその人を自由にする。ギリシャ的な意味における「真理」は、「ある物事の実態」。イエスが語る真理は、「神の実態であるご自分」を語りました。ユダヤ的な意味における「真理」は、「約束に対する忠実さ」。神は約束に忠実なお方。イエスも同じお方。真理であるイエスを知ることが人を自由にする。「信じて知る」と学んできました。(1)信じ、(2)イエスに学び、(3)イエスに身を預け、(4)イエスのことばにとどまり、(5)真理を知り、(6)自由になるのです。
(2)33節・・・『彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどう
して、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」』
①イエスのことばに反発するユダヤ人
「自由にします」と聞いたユダヤ人は、「奴隷扱い」されて腹を立てた。しかし、忘れているか、嘘をついているかのどちらかです。ユダヤ人たちは、歴史的に見ると、(1)エジプト、(2)アッシリア、(3)バビロン、(4)ペルシャの奴隷となり、現在は(5)ローマの奴隷となっているから。
②ユダヤ人の無知
ユダヤ人は、「私たちはアブラハムの子孫」とプライドを持ち、自動的に神の国に入れると誤解して信じていた。本当の弟子になるなら、パリサイ人の教えを捨て、イエスのことばを受け入れたはず。使徒パウロは、『私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』 (ピリピ3:8)と語りました。ユダヤ人たちは、自分たちが罪と悪魔の奴隷であることに気づいていなかったのです。
(3)34節~38節・・・『イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」』
①イエスの教え「あなたがたは罪の奴隷だ」
罪を行う者は「罪の奴隷」である。ここでは罪が擬人法で語られている。『罪から来る報酬は死です。』 (ローマ6:23)私たちも生まれながら罪の奴隷。
②奴隷と息子の身分の違い
奴隷には身分の保証がない。息子は身分が保証されている。イエスを信じた者は神の子となり、身分が保証され、自由にされている。
③ユダヤ人がアブラハムの血縁の子孫であることを認めているが・・・
イエスは、ユダヤ人たちがアブラハムの子孫であることは百も承知していた。しかし、「アブラハムの信仰を持っていない」と語り、その証拠として、「あなたがたはわたしを殺そうとしています。」と指摘した。アブラハムの信仰を持っているならそんなことするはずがないからだ。
④ユダヤ人がイエスを殺そうとする理由
イエスは、父なる神と一つであり、父のもとで見たことを語った。しかし、耳を貸さないばかりか殺そうとしている。つまり、「あなたがたには別の父がいて、その父から示されたことを行っている」と指摘した。別の父についてこのあと指摘されるが、彼らも予想できたはず。
(4)39節・・・『彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」』
①ユダヤ人たちは、再びアブラハムの子孫であると主張
ユダヤ人たちは、「アブラハムの子孫であるので、私たちは奴隷ではない。」と言い張った。ゆえに、罪からの解放者イエスがわからなかった。
2、イエスは悪魔からの解放者 (39節~50節)
(1)39節~41節・・・『イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」』
①子は父のように考え、父のように行動するものだ
②アブラハムのように行動していない
イエスは、「アブラハムはわたしを殺そうとしなかった。なのにあなたがたは、神の真理を語るわたしを殺そうとしている。アブラハムは、神を信じたことで義と認められ、真理に従って歩んだ。あなたがたはアブラハムのように行動していない」と指摘した。
③アブラハムでない別の父のわざを行っている
続いてイエスは、「あなたがたの父はアブラハムではない。あなたがたは別の父のわざを行っている」と指摘。「悪魔が父」と暗示。
(2)41節・・・『彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」』
①イエスに侮辱されたと考え反論
アブラハムのほかに別の父がいることを指摘されたことで、「母親の不品行によって産まれた者ではない」と反論。不品行は偶像崇拝を指す。
②暗にイエスを批判する
当時、「イエスの母マリアは、ローマ兵と関係を持ってイエスを産んだ」と噂された。全くの誤解であるが、昔も今も、処女降誕を信じられない人が多い。
(3)42節~43節・・・『イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。』
①ユダヤ式家族関係を引き合いに語る
ユダヤ人の家族は、互いに愛し合うもの。神が父なら神を愛する。父を愛するなら、父が派遣したイエスを愛するはずだと指摘。
②イエスのことばが理解できない理由
ユダヤ人が、イエスの語る言葉を理解できない理由は、理屈を超えて理解できなかった。『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。』 (第一コリント2:14)
(4)44節~47節・・・『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」』
①ついに「あなたがたの父は悪魔だ」と指摘
イエスは、悪魔に聞き、悪魔に習って行動しているという意味において、「あなたがたの父は悪魔だ」と語られた。悪魔は、『ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。』 (ヨハネ10:10)「あなたがたは、その悪魔に操られてわたしを殺そうとしている」と。
②イエスに「罪がある」と誰も指摘できない
イエスは、「わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」と語った。イエスは、モーセの律法に何一つ違反していないし、正しいことを語っているのにイエスに従っていない。何の言い訳もできない状態だ。
③イエスに従えない理由
イエスに従えない理由は、「あなたがたが悪魔から出ているからだ」。
(5)48節・・・『ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」』
①怒って反論するユダヤ人
イエスのことばにまともに言い返せず、形成が不利となり、怒って罵倒した。ユダヤ人は、サマリヤ人を悪霊と同一視していた。ゆえに、「悪霊につかれている」という意味で「あなたはサマリヤ人だ」と語った。その根拠は、他の指導者が「イエスは悪霊につかれている」という意見を採用した。
(6)49節~50節・・・『イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。』
①イエスの教え
①「父なる神の御心だけを行っている」 ②「わたしを信じない者を父がさばかれる」 ③「父はわたしに栄誉を与える」と語った。
②ユダヤ人は、「イエス」を信じたはずだが、「解放者イエス」を信じることができなかった
結論
1、悪魔はどのように働くか?
①人々が悪霊につかれていると気づかせないで、意のままにコントロールする。②悪魔は嘘つきで殺人者である。③悪魔は自分の存在を隠して、イエスを悪霊つきと呼んだ。嘘つきである。④イエスを殺そうとした。⑤イエスなき現在は、クリスチャンやユダヤ人を迫害する。⑥『それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』 (第二コリント4:3~4)
2、アブラハムのわざとは?
①『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』 (創世記15:6) ②アブラハムのわざは、神のことばを信じること。③ユダヤ人がイエスを通して語られた神のことばを信じない理由は、神の子でないからだ。④イエスを信じるなら罪から解放される。⑤アブラハムは神を信じるだけで義と認められたが、モリヤ山でイサクを神に捧げることで信仰を証明した。⑥これが、ヤコブ書が教える信仰と行いの関係である。⑦マルチン・ルーテルは、当初このことが理解できなかったが、後日理解し、「ワラの書簡発言」を撤回した。
3、奴隷と息子
①イエスを信じるなら、罪と悪魔の奴隷から解放され、神の子とされる。②神の子とされるとは、神の養子とされるという意味である。③奴隷と息子の対比は、イシュマエルとイサクの対比で表されている。④『それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」』 (創世記21:10) ⑤『しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。』 (ガラテヤ4:30~31)
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書8章31節~50節」
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。
8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」
8:39 彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。
8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
8:41 あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」
8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
8:45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
8:46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
8:48 ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
8:49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。
8:50 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。
2016年07月23日
2016年7月17日 日曜礼拝 説教要約
2016年7月17日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「イエスは唯一の救い主である」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章21節~30節
説教者:菅野直基牧師
前回は献金箱のある宮の中でイエスが語った説教を通して学びました。仮庵の祭りでは2つの儀式が行われました。イエスはこの2つの儀式に対して2つのメッセージで答えられました。「水の儀式」に対して、『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』 (ヨハネ7:37)と語られ、「光の儀式」に対して、『わたしは、世の光です。』 (ヨハネ8:12)と語られました。キリストの教えは、単なる哲学ではなく、中身が伴うものであり、実際に、人々の渇きをいやし、人々の暗きを照らされました。今日は、その続きのメッセージになります。イエスとパリサイ人の1問1問式に「わたしは唯一の救い主である」と解き明かされました。今日はここから学びます。
1、「イエスの教え」と「パリサイ人の反応」① (21節~22節)
(1)21節~22節・・・『イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の
中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」そこで、ユダヤ人たちは言った。
「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」』
①イエスの教え(1)
ⅰイエスは、将来ご自分の身に何が起こるのかを知った上で語った(21節)
①十字架にかかり、②死んだ後に墓に葬られ、③三日目に復活し、④40日後に昇天して、父なる神のもとに帰ろうとしておられた。
ⅱパリサイ人に対して、「あなたがたはわたしを捜す」と語った(21節)
キリストはすでに来られて、語っているのに、別にキリストを捜している。今日においても、ユダヤ人はキリストを捜し続けている。
ⅲパリサイ人に対して、「あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」と語った(21節)
「罪」には、単数形と複数形があるが、単数形が使われている。「キリストを信じないことが罪である」という意味である。
②パリサイ人の反応(1)
ⅰイエスの教えを誤解している(22節)
7章35節で以前も語ったが、今回も誤解して受け取った。イエスが自殺しようとしていると理解した。ユダヤ教では、自殺は
最も大きな罪であり、厳しい裁きが下されると教えられていた。つまり、地獄の最も深いところに投げ入れられる。
ⅱ都合よく解釈している(22節)
「イエスは私たちの追及を恐れて、自殺して逃げようとしている。そうであれば、私たちが地獄に行くはずがないので、『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。』 というのは当然だ」と理解した。全く的外れな都合のよい解釈である。
2、「イエスの教え」と「パリサイ人の反応」② (23節~25節)
(1)23節~25節・・・『それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」』
①イエスの教え(2)
ⅰご自分とパリサイ人を対比して語った(23節)
パリサイ人は下(地上)からきたので、「この世の者」であり、私(イエス)は上(天)からきたので、「この世の者」ではない。
ⅱ「罪の中で死ぬ」と、もう一度繰り返して語った(24節)
先ほど語った「罪」は単数形でイエスを信じないことであるが、ここでは「罪」を複数形で語っている。つまり、イエスを信じな
い結果、罪が様々な形を取って、悪く、的外れな行為となって現れる。イエスを信じないならば、罪の中で死ぬ。
②パリサイ人の反応(2)
ⅰイエスの教えを聞き、腹を立てる(25節)
イエスの「わたしを信じなければ、罪の中で死ぬ」という教えを聞いたパリサイ人たちは、「お前、自分を神だとでもいうのか!?何様のつもりか!?」と腹を立てた。
ⅱイエスの教えを聞き、混乱する(25節)
イエスの教えに混乱して、『そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」』 (25節)と聞き返した。
3、「イエスの教え」と「パリサイ人の反応」③ (25節~27節)
(1)25節~27節・・・『イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたが
たについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わ
たしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」彼らは、イエスが父のことを語っておられたこと
を悟らなかった。』
①イエスの教え(3)
ⅰイエスは、「キリスト(メシア)」という言葉を避けて語っている(25節)
今までの話の流れを聞けば、キリストという言葉を使わなくてもわかるが、当時は、「キリスト」というと、ローマの植民地支配から、自国ユダヤを救い出す、政治的なリーダーを連想したので、意図的に避けていたとも受け取れる。
ⅱさらに追加して教えたいことがたくさんある(26節)
パリサイ人に対して、「いかに的外れで罪深いか」を語りたいけれど、語ったとしても平行線であるし、今はそれを横に置く。
ⅲわたしを遣わした方から聞いたことだけを伝える(26節)
「わたしを遣わした方」とは「父なる神」指す。ユダヤの法律では、主人の命令することを執行することは、主人がしたことと見なされ、守られる。イエスの教えは、父なる神の教えを教えたのであるゆえに、法律的に守られる範囲で語っておられた。
②パリサイ人の反応(3)・・・『彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。』 (27節)
ⅰイエスの教えを理解しなかった(27節)
説教者が例話を使う時には、通常、わかりにくいことをわかりやすく伝えるために使われるが、イエスの場合は逆で、聞き手 をかえってわからなくさせている。イエスのこれらの教えは、信仰がなければちんぷんかんぷんであった。
ⅱ理解できない理由(27節)
パリサイ人たちは、父なる神を知っているつもりでいたが、実は、父なる神を知らなかった。父なる神を知らないからイエスを知らなかった。父なる神を知っていたとしたらイエスがわかるはずだからである。しかも、イエスを知ろうともしていない。
4、「イエスの教え」と「パリサイ人の反応」④ (28節~30節)
(1)28節~30節・・・『イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしが
わたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになりま
す。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみ
こころにかなうことを行なうからです。」イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。』
①イエスの教え(4)
ⅰパリサイ人がイエスの本質を知るタイミング(28節)
「人の子を上げる」とは、イエスが十字架につくこと。パリサイ人たちに、「その時あなたがたはわたし(イエス)を知ることになる」と語った。『見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。』 (イザヤ52:13)とは、十字架にかかるイエスについて語った預言の言葉である。使徒パウロは、『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』 (第一コリント1:18)と語った。私たちもイエスの十字架を通して、イエスを知った。
ⅱ十字架はイエスの本質を知らせる(28節)
イエスの十字架は、私たち全人類の罪の購いの死であった。イエスが十字架にかかって死なれた時、地震が起こり、空が暗くなった。聖書に万人救済の教えはない。イエスを救い主と信じるなら救われる。そしてエスは復活された。イエスは神である。
ⅲ父はわたしといつも一緒にいる(29節)
イエスは、人から拒否されても、父なる神がいつも一緒におられた。『見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。』 (ヨハネ16:32)ここにイエスの力があった。そして、ここに私たちの力の源泉が隠されている。
②パリサイ人の反応(4)
ⅰ「多くの者がイエスを信じた」とあるが・・・(30節)
「多くの者がイエスを信じた」というのは、イエスの言葉によって、一時的に知的に納得したという意味である。本当の信仰で はなかったのです。本当にイエスを信じたら、イエスに石を投げるでしょうか。その時は、納得できたから信じたけれど、後に納得できなくなったら信じなくなったのです。『すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』 (ヨハネ8:59)いつの時代にも、こういう信者がいたのである。こういう人たちは、今日の教会にもいる。私たちは、どこまでもイエスについていく本物の信者、本物の弟子とならせて頂きたいものです。
結論
1、救いの条件
(1)イエスは、「わたしは父のもとに上る。わたしを信じない者はそこに行くことはできない」と語った
(2)そしてイエスは、ユダヤ人たちが最も恐れる「あなたがたは罪の中で死ぬ」と語った
(3)神は、人が罪の中で死ぬのではなく、悔い改めて生きることを願われる
『わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。』 (エゼキエル18:23)
『わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。』 (エゼキエル18:32)
(4)「悔い改め」とは、イエスを自らの救い主と信じることである。イエスを信じることが救いの条件である
2、何が信仰を妨げるのか?
(1)信仰は異次元を体験することである
信仰は、今までの延長線上にはない。全く新しい生き方をすることである。ゆえに、信仰を持つことは難しいのである。
(2)イエスを信じた瞬間から、この世に居ながらこの世のものでなはなくなる
イエスを信じた人に天の御国の支配がはじまり、イエスと交わることによって天国を体験する。もはや、この世に居ながらも、この世の者ではなくなる。天国人になったのである。それゆえ、この世(悪魔が支配する社会)の人から迫害を受ける。イエスを信じる人には、イエスに起こったことが自らの身に起こる。祝福もたくさん受けたのだ。キリストのために受ける苦しみを甘んじて受け入れていきたいものです。パウロは語りました。『あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。』 (ピリピ1:29)キリストのための苦しみを賜った。プレゼントとして与えられたのです。
3、なぜカルトが生まれるのか?
(1)カルト教祖になる指導者も、カルト教祖についていく人も、表面はクリスチャンのようでも、中身は本質的に変わっていない
(2)本質的に生まれ変わっていない人が、宗教を隠れみのにして、肉の欲を満たすためにカルト宗教をつくり、そこに追従する
(3)キリスト教はキリストに仕えるが、カルト教団は教祖の欲に仕えることで悪魔に仕えている。しかし、当事者はそれに気づかない
(4)カルト教祖は権威を振りかざし、信徒をコントロールする。聖書が教えるリーダーシップは、遣わした方の御心を行う範囲においてのみ権威をふるうのである 『わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」』 (26節)
(6)聖書が教える信者の生き方は、リーダーである牧師が語った神の言葉に忠実に従うこと
4、なぜクリスチャンになったのに教会を離れる人が居るのか?
(1)30節で、『多くの者がイエスを信じた。』 とあるのに、これらの人々は後に信仰を捨てた
(2)いくら、口で「わたしはイエスを信じます」といったとしても、本当に救われたかどうか、その信仰をよく吟味する必要がある
(3)救われた人は、一時的につまずいて教会を離れたとしても、必ず戻ってくるが、救われていない人は、そのまま離れてしまう
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書8章21節~30節」
8:21 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」
8:23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。
8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」
8:27 彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。
8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
説教題:「イエスは唯一の救い主である」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章21節~30節
説教者:菅野直基牧師
前回は献金箱のある宮の中でイエスが語った説教を通して学びました。仮庵の祭りでは2つの儀式が行われました。イエスはこの2つの儀式に対して2つのメッセージで答えられました。「水の儀式」に対して、『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』 (ヨハネ7:37)と語られ、「光の儀式」に対して、『わたしは、世の光です。』 (ヨハネ8:12)と語られました。キリストの教えは、単なる哲学ではなく、中身が伴うものであり、実際に、人々の渇きをいやし、人々の暗きを照らされました。今日は、その続きのメッセージになります。イエスとパリサイ人の1問1問式に「わたしは唯一の救い主である」と解き明かされました。今日はここから学びます。
1、「イエスの教え」と「パリサイ人の反応」① (21節~22節)
(1)21節~22節・・・『イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の
中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」そこで、ユダヤ人たちは言った。
「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」』
①イエスの教え(1)
ⅰイエスは、将来ご自分の身に何が起こるのかを知った上で語った(21節)
①十字架にかかり、②死んだ後に墓に葬られ、③三日目に復活し、④40日後に昇天して、父なる神のもとに帰ろうとしておられた。
ⅱパリサイ人に対して、「あなたがたはわたしを捜す」と語った(21節)
キリストはすでに来られて、語っているのに、別にキリストを捜している。今日においても、ユダヤ人はキリストを捜し続けている。
ⅲパリサイ人に対して、「あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」と語った(21節)
「罪」には、単数形と複数形があるが、単数形が使われている。「キリストを信じないことが罪である」という意味である。
②パリサイ人の反応(1)
ⅰイエスの教えを誤解している(22節)
7章35節で以前も語ったが、今回も誤解して受け取った。イエスが自殺しようとしていると理解した。ユダヤ教では、自殺は
最も大きな罪であり、厳しい裁きが下されると教えられていた。つまり、地獄の最も深いところに投げ入れられる。
ⅱ都合よく解釈している(22節)
「イエスは私たちの追及を恐れて、自殺して逃げようとしている。そうであれば、私たちが地獄に行くはずがないので、『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。』 というのは当然だ」と理解した。全く的外れな都合のよい解釈である。
2、「イエスの教え」と「パリサイ人の反応」② (23節~25節)
(1)23節~25節・・・『それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」』
①イエスの教え(2)
ⅰご自分とパリサイ人を対比して語った(23節)
パリサイ人は下(地上)からきたので、「この世の者」であり、私(イエス)は上(天)からきたので、「この世の者」ではない。
ⅱ「罪の中で死ぬ」と、もう一度繰り返して語った(24節)
先ほど語った「罪」は単数形でイエスを信じないことであるが、ここでは「罪」を複数形で語っている。つまり、イエスを信じな
い結果、罪が様々な形を取って、悪く、的外れな行為となって現れる。イエスを信じないならば、罪の中で死ぬ。
②パリサイ人の反応(2)
ⅰイエスの教えを聞き、腹を立てる(25節)
イエスの「わたしを信じなければ、罪の中で死ぬ」という教えを聞いたパリサイ人たちは、「お前、自分を神だとでもいうのか!?何様のつもりか!?」と腹を立てた。
ⅱイエスの教えを聞き、混乱する(25節)
イエスの教えに混乱して、『そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」』 (25節)と聞き返した。
3、「イエスの教え」と「パリサイ人の反応」③ (25節~27節)
(1)25節~27節・・・『イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたが
たについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わ
たしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」彼らは、イエスが父のことを語っておられたこと
を悟らなかった。』
①イエスの教え(3)
ⅰイエスは、「キリスト(メシア)」という言葉を避けて語っている(25節)
今までの話の流れを聞けば、キリストという言葉を使わなくてもわかるが、当時は、「キリスト」というと、ローマの植民地支配から、自国ユダヤを救い出す、政治的なリーダーを連想したので、意図的に避けていたとも受け取れる。
ⅱさらに追加して教えたいことがたくさんある(26節)
パリサイ人に対して、「いかに的外れで罪深いか」を語りたいけれど、語ったとしても平行線であるし、今はそれを横に置く。
ⅲわたしを遣わした方から聞いたことだけを伝える(26節)
「わたしを遣わした方」とは「父なる神」指す。ユダヤの法律では、主人の命令することを執行することは、主人がしたことと見なされ、守られる。イエスの教えは、父なる神の教えを教えたのであるゆえに、法律的に守られる範囲で語っておられた。
②パリサイ人の反応(3)・・・『彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。』 (27節)
ⅰイエスの教えを理解しなかった(27節)
説教者が例話を使う時には、通常、わかりにくいことをわかりやすく伝えるために使われるが、イエスの場合は逆で、聞き手 をかえってわからなくさせている。イエスのこれらの教えは、信仰がなければちんぷんかんぷんであった。
ⅱ理解できない理由(27節)
パリサイ人たちは、父なる神を知っているつもりでいたが、実は、父なる神を知らなかった。父なる神を知らないからイエスを知らなかった。父なる神を知っていたとしたらイエスがわかるはずだからである。しかも、イエスを知ろうともしていない。
4、「イエスの教え」と「パリサイ人の反応」④ (28節~30節)
(1)28節~30節・・・『イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしが
わたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになりま
す。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみ
こころにかなうことを行なうからです。」イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。』
①イエスの教え(4)
ⅰパリサイ人がイエスの本質を知るタイミング(28節)
「人の子を上げる」とは、イエスが十字架につくこと。パリサイ人たちに、「その時あなたがたはわたし(イエス)を知ることになる」と語った。『見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。』 (イザヤ52:13)とは、十字架にかかるイエスについて語った預言の言葉である。使徒パウロは、『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』 (第一コリント1:18)と語った。私たちもイエスの十字架を通して、イエスを知った。
ⅱ十字架はイエスの本質を知らせる(28節)
イエスの十字架は、私たち全人類の罪の購いの死であった。イエスが十字架にかかって死なれた時、地震が起こり、空が暗くなった。聖書に万人救済の教えはない。イエスを救い主と信じるなら救われる。そしてエスは復活された。イエスは神である。
ⅲ父はわたしといつも一緒にいる(29節)
イエスは、人から拒否されても、父なる神がいつも一緒におられた。『見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。』 (ヨハネ16:32)ここにイエスの力があった。そして、ここに私たちの力の源泉が隠されている。
②パリサイ人の反応(4)
ⅰ「多くの者がイエスを信じた」とあるが・・・(30節)
「多くの者がイエスを信じた」というのは、イエスの言葉によって、一時的に知的に納得したという意味である。本当の信仰で はなかったのです。本当にイエスを信じたら、イエスに石を投げるでしょうか。その時は、納得できたから信じたけれど、後に納得できなくなったら信じなくなったのです。『すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。』 (ヨハネ8:59)いつの時代にも、こういう信者がいたのである。こういう人たちは、今日の教会にもいる。私たちは、どこまでもイエスについていく本物の信者、本物の弟子とならせて頂きたいものです。
結論
1、救いの条件
(1)イエスは、「わたしは父のもとに上る。わたしを信じない者はそこに行くことはできない」と語った
(2)そしてイエスは、ユダヤ人たちが最も恐れる「あなたがたは罪の中で死ぬ」と語った
(3)神は、人が罪の中で死ぬのではなく、悔い改めて生きることを願われる
『わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。』 (エゼキエル18:23)
『わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。』 (エゼキエル18:32)
(4)「悔い改め」とは、イエスを自らの救い主と信じることである。イエスを信じることが救いの条件である
2、何が信仰を妨げるのか?
(1)信仰は異次元を体験することである
信仰は、今までの延長線上にはない。全く新しい生き方をすることである。ゆえに、信仰を持つことは難しいのである。
(2)イエスを信じた瞬間から、この世に居ながらこの世のものでなはなくなる
イエスを信じた人に天の御国の支配がはじまり、イエスと交わることによって天国を体験する。もはや、この世に居ながらも、この世の者ではなくなる。天国人になったのである。それゆえ、この世(悪魔が支配する社会)の人から迫害を受ける。イエスを信じる人には、イエスに起こったことが自らの身に起こる。祝福もたくさん受けたのだ。キリストのために受ける苦しみを甘んじて受け入れていきたいものです。パウロは語りました。『あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。』 (ピリピ1:29)キリストのための苦しみを賜った。プレゼントとして与えられたのです。
3、なぜカルトが生まれるのか?
(1)カルト教祖になる指導者も、カルト教祖についていく人も、表面はクリスチャンのようでも、中身は本質的に変わっていない
(2)本質的に生まれ変わっていない人が、宗教を隠れみのにして、肉の欲を満たすためにカルト宗教をつくり、そこに追従する
(3)キリスト教はキリストに仕えるが、カルト教団は教祖の欲に仕えることで悪魔に仕えている。しかし、当事者はそれに気づかない
(4)カルト教祖は権威を振りかざし、信徒をコントロールする。聖書が教えるリーダーシップは、遣わした方の御心を行う範囲においてのみ権威をふるうのである 『わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」』 (26節)
(6)聖書が教える信者の生き方は、リーダーである牧師が語った神の言葉に忠実に従うこと
4、なぜクリスチャンになったのに教会を離れる人が居るのか?
(1)30節で、『多くの者がイエスを信じた。』 とあるのに、これらの人々は後に信仰を捨てた
(2)いくら、口で「わたしはイエスを信じます」といったとしても、本当に救われたかどうか、その信仰をよく吟味する必要がある
(3)救われた人は、一時的につまずいて教会を離れたとしても、必ず戻ってくるが、救われていない人は、そのまま離れてしまう
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書8章21節~30節」
8:21 イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」
8:23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。
8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。
8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」
8:27 彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。
8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」
8:30 イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。
2016年07月10日
2016年7月10日 日曜礼拝 説教要約
2016年7月10日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「世の光であるイエス」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章12節~20節
説教者:菅野直基牧師
前回までを振り返ってみると、「仮庵の祭り」にイエスが出現され、その最後の日に立って大声で叫んで人々を招かれました。その翌日、イエスが宮で民衆を教えておられると、指導者たちによって姦淫の現行犯で逮捕された女性が連れてこられ、どう処するかを試すことで罠にかけようとされました。イエスは「罪のない者がこの女に石を投げよ」と語って、見事に解決されました。もちろん、罪を水に流したのではなく、ご自分がこれから十字架にかかって罪を身代わりに背負うことによってです。そしてイエスは、「わたしは世の光である」と語られました。今日は、この言葉を通してイエスがどういうお方であり、どういうことをして下さるのかを共に学びます。
1、「わたしは世の光」というイエスの自己宣言 (12節)
(1)8章12節・・・『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』
①語られた場所は?
献金箱のある宮の中で語られた。『イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。』 (20節)
②誰に向かって宣言したのか?
語った対象の「彼ら」とは、指導者と群集である。つまり、すでに従っている弟子を除く、すべての人に語られた言葉である。
③なぜここで、「世の光」と語られたのか?
仮庵の祭りでは2つに儀式が行われました。①水を汲んで祭壇に注ぐ儀式。水を汲んで祭壇に注ぐ儀式に対して、『「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』 (7:37~38)と語られ、②ランプに火を灯す儀式。ランプを灯す儀式に対して、『わたしは、世の光です。』 (12節)と語られたのでしょう。このランプの光は、エルサレムの狭い路地裏まで照らした。聖書を文脈に沿って読み、解釈しないと、突拍子もないことをイエス様がいわれたと感じますし、全く違った意味に取ってしまう可能性もあるのです。
④ユダヤにおいて「世の光」は何を意味したのか?
ユダヤでは、イスラエル、エルサレム、族長、キリスト、神、高名なラビ、律法など、意義あるものに対して、「世の光」と称した。
⑤「世の光」は何を照らす光なのか?
イエスは2つの意味で光であった。①暗闇の業を照らして明らかにする光と、②神の恵みを完全に示す光であった
⑥イエスは何を指して「世の光」といわれたのか?
イエスが「世の光」と語られたのは、単に照らす光以上のものであり、神の栄光であり、神の臨在を意味する「Shekinah Glory(シャカイナ・グローリー)」のことである。例えば、創世記1章3節で、『神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』 とある「光」は、太陽の事ではなく、「シャカイナ・グローリー」のことである。さらに、出エジプト後の荒野の旅で雲の柱と火の柱として現れ、幕屋に宿った栄光は、「シャカイナ・グローリー」であった。イエスはご自分をその意味において「世の光である」と自己宣言された。
2、イエスとパリサイ人の論争 (13節~19節)
(1)13節・・・『そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」』
①モーセの律法による法律議論
モーセの律法では、2人、または3人の証人による証言が必要であるとされていた。『どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。』 (申命記19:15)パリサイ人たちはイエスに、「あなたの証言には2人、または3人以上の証人がいないあなた1人が自己証言しているに過ぎない。だからあなたの言葉は真実ではない」と、モーセの律法をたてに論争を仕掛けた。つまり、自己証言を認めないばかりか、耳を貸そうともしていない。最初からイエスの言葉を信じるつもりがなかったのである。
(2)14節・・・『イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。』
①イエスは証人を必要としない
イエスは、「わたしの証言は真実である」と語られたが、指導者たちがイエスの自己証言を認めなかった。理由は、人間には偏りがあり、偽りをいう可能性があるからだ。これはごもっともなことであるが、それは、イエスが単なる人間であり、誇大妄想家であるならばだ。イエスは神であり、何の偏りも、偽りもない完全な自己認識を持ったお方であり、さらに、ご自分がどこから来て、どこへ行くのかまでを完全に知っておられた。
②パリサイ人は無知で、偏見を持っていた
パリサイ人たちは、イエスが神のもとからきた「シャカイナ・グローリー(神の栄光)」であることを知らず、イエスが十字架で死なれた後3日目によみがえり、父なる神のもとに帰って行かれることを全く持って知らなかった。
(3)15節~16節・・・『あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。』
①パリサイ人の裁き
パリサイ人たちの裁きは、表面的なものであった。『人はうわべを見るが、主は心を見る。』 (第一サムエル16:7)だから本質が見えないので、イエスを、「ナザレの大工」としか見られなかった。人をうわべで判断し、表面的な裁きをしていないか気をつけたいものです。
②イエスの裁き
イエスは、「わたしはだれをもさばきません。」といわれた。もちろん、終末における裁きはご自分の裁きではなく、父なる神の裁きを執行されるに過ぎない。さらに、裁くとしても、その裁きは正しい。父なる神と共に裁くからだ。パリサイ人はこの言葉を神への冒涜と解釈した。
(4)17節~18節・・・『あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」』
①あなたがたの律法
イエスはパリサイ人たちに、「あなたがたの律法にも・・・」と語ったのは、「あなたがたは『律法を所有している』といっているけれど、それは単に利用しているに過ぎない」という意味でいわれた。所有者と自負するなら、利用する以前に実践するべきであるからだ。彼らは、自らモーセの律法を実践していなかった。これは皮肉を込めた言葉である。
イエスは「わたしの証言は真実である」と語られたが、同時に、モーセの律法の「ふたりの証言は真実である」という言葉を認めていた。
②ユダヤ的論法
イエスは、偏りがあり、偽る可能性のある人間2人~3人の証言が有効ならば、まして、神である私の証言は確かであるという意味で語った。
③2人の証人
1人目の証人はイエスご自身であり、イエスが行った数々の奇跡がそれを証明している。2人目の証人は、父なる神である。
『天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」』 (マタイ3:17)しかし、信じなかった。
(5)19節・・・『すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」』
①パリサイ人は、「父は誰か?」ではなく、「父はどこにいるのか?」と聞いた
イエスが「わたしを遣わした父が」と語っている言葉に対して、パリサイ人たちは、「その父とはヨセフなのか?それとも、他の誰かなのか?」と質問したのではなく、「あなたの父はどこにいるのか?」と聞いた。話の流れの中で、イエスが父なる神を「わたしの父」と呼んでいるのは理解した上でのことなので、「その父とやらをここに呼んでこい。姿を現すことはできないのか?」と嘲っているのであった。
②イエスの答え
イエスは、ヨセフを父と呼んでいる記事は残っていない。もちろん、公生涯以前のヨセフの存命中には、「お父様」と呼んで忠義を尽くしたに違いありません。しかし、30歳からの公生涯においては、父なる神のみを父と呼んだ。ユダヤでは、父とその長子は同格と考えた。イエスは、「わたしを見た者は父を見た」と語った。「わたしを知ろうともせず、わたしを知らないあなたがたは、父をも知らないのだ」と語ったのである。
3、その結末 (20節)
(1)20節・・・『イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。』
①イエスは公然と語っていた
イエスは何一つ恐れることなく、大胆に語っておられた。その場所には、献金箱が置かれていた。つまり宗教的な場所であった。
②しかし、誰もイエスを捕らえなかった
あえて、「誰もイエスを捕らえなかった」と書かれているのは、パリサイ人たちはイエスに殺意を頂き、何とかして捕らえたかったからです。しかし、「イエスの時」つまり、イエスが十字架にかかる時がまだきていなかったため、神が守られたのである。
結論
1、仮庵の祭りの2つに儀式に応答して語られた
①「水を汲む儀式」に対して、「わたしのもとにきて飲みなさい」と語られた。
②「ランプに火を灯す儀式」に対して、「わたしは世の光だ」と語られた。
2、水を汲む儀式に対する答え
『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』 (ヨハネ7:37~38)
人には、神でしかいやせない渇きがある。イエスは、その心の渇きを完全にいやし、満たすと語られた。そして、実際にそうして下さる。
3、ランプに火を灯す儀式に対する答え
『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』 (ヨハネ8:12)
「世の光」を例えるなら、イエスは太陽の光で、私たちはそれを反映して輝く月の光。私たちがイエスを信じ、イエスに従うなら、イエスから与えられるいのちの光を持ち、決して暗闇の中を歩くことがない。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書7章53節8章~11節」
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
8:13 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
8:14 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。
8:15 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
8:16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。
8:17 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
8:18 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
説教題:「世の光であるイエス」
聖書箇所:ヨハネの福音書8章12節~20節
説教者:菅野直基牧師
前回までを振り返ってみると、「仮庵の祭り」にイエスが出現され、その最後の日に立って大声で叫んで人々を招かれました。その翌日、イエスが宮で民衆を教えておられると、指導者たちによって姦淫の現行犯で逮捕された女性が連れてこられ、どう処するかを試すことで罠にかけようとされました。イエスは「罪のない者がこの女に石を投げよ」と語って、見事に解決されました。もちろん、罪を水に流したのではなく、ご自分がこれから十字架にかかって罪を身代わりに背負うことによってです。そしてイエスは、「わたしは世の光である」と語られました。今日は、この言葉を通してイエスがどういうお方であり、どういうことをして下さるのかを共に学びます。
1、「わたしは世の光」というイエスの自己宣言 (12節)
(1)8章12節・・・『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』
①語られた場所は?
献金箱のある宮の中で語られた。『イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。』 (20節)
②誰に向かって宣言したのか?
語った対象の「彼ら」とは、指導者と群集である。つまり、すでに従っている弟子を除く、すべての人に語られた言葉である。
③なぜここで、「世の光」と語られたのか?
仮庵の祭りでは2つに儀式が行われました。①水を汲んで祭壇に注ぐ儀式。水を汲んで祭壇に注ぐ儀式に対して、『「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』 (7:37~38)と語られ、②ランプに火を灯す儀式。ランプを灯す儀式に対して、『わたしは、世の光です。』 (12節)と語られたのでしょう。このランプの光は、エルサレムの狭い路地裏まで照らした。聖書を文脈に沿って読み、解釈しないと、突拍子もないことをイエス様がいわれたと感じますし、全く違った意味に取ってしまう可能性もあるのです。
④ユダヤにおいて「世の光」は何を意味したのか?
ユダヤでは、イスラエル、エルサレム、族長、キリスト、神、高名なラビ、律法など、意義あるものに対して、「世の光」と称した。
⑤「世の光」は何を照らす光なのか?
イエスは2つの意味で光であった。①暗闇の業を照らして明らかにする光と、②神の恵みを完全に示す光であった
⑥イエスは何を指して「世の光」といわれたのか?
イエスが「世の光」と語られたのは、単に照らす光以上のものであり、神の栄光であり、神の臨在を意味する「Shekinah Glory(シャカイナ・グローリー)」のことである。例えば、創世記1章3節で、『神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』 とある「光」は、太陽の事ではなく、「シャカイナ・グローリー」のことである。さらに、出エジプト後の荒野の旅で雲の柱と火の柱として現れ、幕屋に宿った栄光は、「シャカイナ・グローリー」であった。イエスはご自分をその意味において「世の光である」と自己宣言された。
2、イエスとパリサイ人の論争 (13節~19節)
(1)13節・・・『そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」』
①モーセの律法による法律議論
モーセの律法では、2人、または3人の証人による証言が必要であるとされていた。『どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。』 (申命記19:15)パリサイ人たちはイエスに、「あなたの証言には2人、または3人以上の証人がいないあなた1人が自己証言しているに過ぎない。だからあなたの言葉は真実ではない」と、モーセの律法をたてに論争を仕掛けた。つまり、自己証言を認めないばかりか、耳を貸そうともしていない。最初からイエスの言葉を信じるつもりがなかったのである。
(2)14節・・・『イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。』
①イエスは証人を必要としない
イエスは、「わたしの証言は真実である」と語られたが、指導者たちがイエスの自己証言を認めなかった。理由は、人間には偏りがあり、偽りをいう可能性があるからだ。これはごもっともなことであるが、それは、イエスが単なる人間であり、誇大妄想家であるならばだ。イエスは神であり、何の偏りも、偽りもない完全な自己認識を持ったお方であり、さらに、ご自分がどこから来て、どこへ行くのかまでを完全に知っておられた。
②パリサイ人は無知で、偏見を持っていた
パリサイ人たちは、イエスが神のもとからきた「シャカイナ・グローリー(神の栄光)」であることを知らず、イエスが十字架で死なれた後3日目によみがえり、父なる神のもとに帰って行かれることを全く持って知らなかった。
(3)15節~16節・・・『あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。』
①パリサイ人の裁き
パリサイ人たちの裁きは、表面的なものであった。『人はうわべを見るが、主は心を見る。』 (第一サムエル16:7)だから本質が見えないので、イエスを、「ナザレの大工」としか見られなかった。人をうわべで判断し、表面的な裁きをしていないか気をつけたいものです。
②イエスの裁き
イエスは、「わたしはだれをもさばきません。」といわれた。もちろん、終末における裁きはご自分の裁きではなく、父なる神の裁きを執行されるに過ぎない。さらに、裁くとしても、その裁きは正しい。父なる神と共に裁くからだ。パリサイ人はこの言葉を神への冒涜と解釈した。
(4)17節~18節・・・『あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」』
①あなたがたの律法
イエスはパリサイ人たちに、「あなたがたの律法にも・・・」と語ったのは、「あなたがたは『律法を所有している』といっているけれど、それは単に利用しているに過ぎない」という意味でいわれた。所有者と自負するなら、利用する以前に実践するべきであるからだ。彼らは、自らモーセの律法を実践していなかった。これは皮肉を込めた言葉である。
イエスは「わたしの証言は真実である」と語られたが、同時に、モーセの律法の「ふたりの証言は真実である」という言葉を認めていた。
②ユダヤ的論法
イエスは、偏りがあり、偽る可能性のある人間2人~3人の証言が有効ならば、まして、神である私の証言は確かであるという意味で語った。
③2人の証人
1人目の証人はイエスご自身であり、イエスが行った数々の奇跡がそれを証明している。2人目の証人は、父なる神である。
『天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」』 (マタイ3:17)しかし、信じなかった。
(5)19節・・・『すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」』
①パリサイ人は、「父は誰か?」ではなく、「父はどこにいるのか?」と聞いた
イエスが「わたしを遣わした父が」と語っている言葉に対して、パリサイ人たちは、「その父とはヨセフなのか?それとも、他の誰かなのか?」と質問したのではなく、「あなたの父はどこにいるのか?」と聞いた。話の流れの中で、イエスが父なる神を「わたしの父」と呼んでいるのは理解した上でのことなので、「その父とやらをここに呼んでこい。姿を現すことはできないのか?」と嘲っているのであった。
②イエスの答え
イエスは、ヨセフを父と呼んでいる記事は残っていない。もちろん、公生涯以前のヨセフの存命中には、「お父様」と呼んで忠義を尽くしたに違いありません。しかし、30歳からの公生涯においては、父なる神のみを父と呼んだ。ユダヤでは、父とその長子は同格と考えた。イエスは、「わたしを見た者は父を見た」と語った。「わたしを知ろうともせず、わたしを知らないあなたがたは、父をも知らないのだ」と語ったのである。
3、その結末 (20節)
(1)20節・・・『イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。』
①イエスは公然と語っていた
イエスは何一つ恐れることなく、大胆に語っておられた。その場所には、献金箱が置かれていた。つまり宗教的な場所であった。
②しかし、誰もイエスを捕らえなかった
あえて、「誰もイエスを捕らえなかった」と書かれているのは、パリサイ人たちはイエスに殺意を頂き、何とかして捕らえたかったからです。しかし、「イエスの時」つまり、イエスが十字架にかかる時がまだきていなかったため、神が守られたのである。
結論
1、仮庵の祭りの2つに儀式に応答して語られた
①「水を汲む儀式」に対して、「わたしのもとにきて飲みなさい」と語られた。
②「ランプに火を灯す儀式」に対して、「わたしは世の光だ」と語られた。
2、水を汲む儀式に対する答え
『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』 (ヨハネ7:37~38)
人には、神でしかいやせない渇きがある。イエスは、その心の渇きを完全にいやし、満たすと語られた。そして、実際にそうして下さる。
3、ランプに火を灯す儀式に対する答え
『イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」』 (ヨハネ8:12)
「世の光」を例えるなら、イエスは太陽の光で、私たちはそれを反映して輝く月の光。私たちがイエスを信じ、イエスに従うなら、イエスから与えられるいのちの光を持ち、決して暗闇の中を歩くことがない。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書7章53節8章~11節」
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
8:13 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」
8:14 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。
8:15 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
8:16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。
8:17 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。
8:18 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」
8:20 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
2016年07月03日
2016年7月3日 日曜礼拝 説教要約
2016年7月3日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「トラブルに巻き込まれない秘訣」
聖書箇所:士師記13章2節~5節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
今日のメッセージの主人公である「サムソン」は、20年間イスラエルを治めた指導者です。士師記13章を見ると、御使いがサムソンの両親の前に現れて、『見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。・・・彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。』 (3節と5節)と預言をするところからはじまります。夫婦には子どもがなく、母親は不妊でした。神は、そんな夫婦に、将来イスラエルの士師になる息子サムソンを奇跡的に与えて下さいました。成人したサムソンは、御使いの預言通りに、20年間イスラエルで士師を務めました。士師とは、軍隊の長であり、部族の指導者です。/この当時、イスラエルはペリシテ人と敵対関係にありました。
サムソンは、並外れた力、卓越した才能、素晴らしい容姿を持ち、神との特別な関係が与えられていました。指導者に必要なすべてを備えていました。しかし、サムソンには致命的な問題がありました。自己中心さです。サムソンは、生涯、自分というその敵に悩まされ続けました。ついには、人生を棒に振ってしまいました。/残念ですが、人間は数千年前から少しも進化していません。私たちも、サムソンと何も変わりません。自己中心という弱さに翻弄されています。/サムソンは、その人生の中で何度か取り返しのつかない選択をしてしまいました。その失敗から、私たちが共通して陥りやすい罠を見極めて、今後、トラブルに巻き込まれない生き方をしていくことができたら幸いです。
1、失敗から学べ
サムソンの生涯から得る教訓の第一は、「失敗から学べ」ということです。サムソンは2つの弱さを抱えていました。
①「怒りっぽさ」
②「過度の性欲」です。
サムソンは、とても激しい性格の持ち主でした。しばしば怒りに任せて誤まった行動を取りました。その根本にあるのは自己中心です。「やられたらやり返す!」という復讐心という動機で失敗を繰り返しました。自分の妻を影で口説いたことで、三十着の着物と三十着の晴れ着を渡さなければならなくなったので、三十人を殺して、着物を奪い取って渡すという残忍な行動を取りました。(士師14章)また、復讐のために、三百匹のジャッカルを二匹ずつしっぽを結びつけ、そこにたいまつを取り付けて畑に火を放ちました。サムソンの怒りの動機は、いつも復讐心でした。
次に、サムソンは、肉体的には頑強なのに、女性にはとても弱かったのです。神の教えを自覚的に無視し、情けないほど女性問題で失敗を繰り返しました。サムソンの心には、「いかに火傷をしないで火遊びをするか」を考えていたのでしょう。しかし、何度火傷をしても、その失敗から何一つ学ぶことなく、同じ過ちを繰り返しました。ある日、売春婦の「デリラ」と知り合って、いつものように火遊びを楽しみました。デリラはサムソンが持つ特別な力の秘密を探って、何度もしつこく「教えてほしい」と尋ねました。ついに秘密をもらしてしまいました。サムソンは火遊びのつもりでしたが、このことから大変な大火傷を負い、取り返しの付かないことになってしまいました。/私たちも、サムソンと同じように、火傷をしない程度の火遊びをすることはないでしょうか。「一回だけだから・・・」と。誰もその一回が取り返しの付かない命取りになるとは考えもしないでしょう。しかし、失敗とは、そのような形で忍び寄ってきて、「あと一回・・・」「今日で最後・・・」といっている間に、取り返しの付かないことになってしまうのです。/ある人は、「このことはどうしてもやめられないのです。何度も何度も努力しましたが無理でした。」といいます。あなたも同じようにいわれるかも知れません。しかし神は、その問題と正面から向き合う時に、必ず導きと助けと解決を与えて下さいます。神にできないことはありません。
2、友を選べ
サムソンの生涯から得る教訓の第二は、「友を選べ」ということです。聖書は、『思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。』 (第一コリント15:33)と書かれています。また、ことわざにも「朱に交われば赤くなる」とあります。人は、交わり、触れ続けるものに似ていくのです。「似た者夫婦」といわれますが、一緒に居る事で二人は似ていくのです。これから結婚する人は、神の導きに従って相手を慎重に選びましょう。しかし、簡単に考えやすいですが、友達選びが重要です。サムソンを破滅に追いやったのは、彼の交友関係にあったのです。サムソンは、神からの特別な使命が与えられていましたが、不健全な友達の影響を受け手、道を踏み外してしまいました。/みなさん、今あなたが付き合っている友人が、神様との関係を妨げているということはないでしょうか?神に対する献身度、純真さ、熱心さ。日曜日の礼拝を捧げる姿勢。献金を捧げる心。伝道などを邪魔しているとしたら、その関係は健全ではありません。もちろん、未信者を伝道し、イエス様に導くことは大切です。しかし、友として悪い影響を受けるべきではありません。私たちは、互いにあるべき姿で生きられるように建て上げ合い、励まし合い、成長し合える友人を持つべきです。これから結婚する人は、相手を慎重に選んで下さい。私たちは、サムソンの失敗から学びたいものです。
3、神を第一にせよ
サムソンの生涯から得る教訓の第三は、「神を第一にせよ」です。サムソンの生涯を貫いているのは、神に対する無関心さ、無頓着さです。おそらく、その人生の中で神を第一に生きたということは一度もなかったのではないでしょうか。
その特徴は、
①「自己中心」
②「祈らない」
③「神を利用する」です。
まず、サムソンは、いつも自分のためだけに生きていました。本能の赴くままに行動していました。神は、サムソンに素晴らしい人生を計画しておられました。しかしサムソンは、神のその計画に無関心で、無頓着でした。適当に扱い、真剣に考えたことはありませんでした。その結果、人生を台無しにしてしまいました。20年間もイスラエルの士師を務めたのに、敵であるペリシテ人を追い払うことができず、最後は、彼らに殺されてしまったのです。
次に、サムソンは、死ぬ直前の最期を除いて、神に真剣に祈ったことがありませんでした。最期とは、二本の柱をつかんでペリシテ人の宮殿を倒壊させた時のことです。それ以外は、いつも心のままに生きました。神の指示を仰ぐことなく、怒りっぽく、衝動的であり、やりたいことはやり通しました。
最後に、サムソンは、いつも神を利用しました。しかし、窮地に追い詰められるまで神に心を向けることはありませんでした。困った時の神頼みです。クリスチャンの中に、表面的に見ると熱心で、神によく仕えているように映っても、実際は、自己実現に熱心なだけで、神を便利屋さんとして利用しているに過ぎない人が居ます。/サムソンは、人生の最期を迎えるまで、自己中心であり、祈ることをせず、神を利用する生き方しかしてきませんでした。ペリシテ人に捕らえられて、両目をえぐり出されて、家畜が挽いていた石臼を挽かされるようになった時にはじめて目を覚まし、真剣になりました。すべてが崩壊し、「時すでに遅し」という時になって、ついに祈りました。もしサムソンが、はじめから神を第一にして、祈り、神に仕えていたならば、その人生はどれだけ祝福されたことでしょう。神を後回しにした生き方が、無限の可能性を閉ざし、信用を失わせ、自由を奪われ、征服するべき敵地で奴隷にされてしまったのです。聖書は、『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』 (ガラテヤ6:7)と語ります。
4、神は見捨てられない
もし、サムソンの話がここで終わってしまったとしたら、単に「悪いことをした結果、悪いことが起こった」という因果応報と、サムソンを反面教師に、「このような生き方をしてはならない」という希望のない結末ですが、そうではありません。ペリシテ人によって切り落とされ、そり落とされた髪の毛は、神との契約のしるしでした。髪の毛に力があったのではなく、神との関係を外面的に現すしるしでした。サムソンは、ペリシテ人の手で髪の毛を落とされる前に、すでに心の中では神との関係は切られていたのです。しかし、サムソンは悔い改め、真剣に神に祈り求めました。そうしたら、外面的なしるしが現れました。『しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。』 (士師16:22)サムソンは、もう一度人生をやり直したのです。神は、サムソンの願いを聞き届けられました。再びサムソンは力を受けて、素晴らしい勝利を得て人生の幕を閉じることができたのです。
サムソンは、ペリシテ人の神ダゴン大神殿に連れて行かれました。数千人のペリシテ人が彼をあざけり、イスラエルの神をからかうために集まっていました。サムソンは、大神殿を支えている二本の中柱の真ん中に立ち、その柱をつかみながら神に祈りました。神は祈りに答えられて、サムソンが力を振り絞って二本の柱を押すと、大神殿は倒壊し、サムソンもしに増したが、そこに居たペリシテ人全員が共に死にました。サムソンは、悲しい最期を迎えたようですが、存命中の働きをはるかにしのぐ偉業を成し遂げ、ついには、敵に打ち勝つことができたのです。ことわざに、「肉を切らせて骨を断つ」とありますが、命をかけて使命を果たすことができました。『サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。』 (士師16:29~30)とあります。
ここに慰めがあります。もしかしたら、「私は人生において、取り返しが付かないような大きな失敗をしてしまった」と悔やむことはないでしょうか。そんな時、サムソンを思い出して下さい。神は、サムソンを見捨てることはありませんでした。神は、あなたを忘れていません。あなたを見捨てることはありません。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』 (ヘブル13:5)『わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。』 (ヨハネ14:18)また、神は、あなたに与えられた可能性と、あなたが造られた目的を決して忘れることがありません。あなたが自己中心を捨てて、神に立ち返り、神の国と神の義を第一に求めるならば、無限の可能性と与えられた使命を発見することができるはずです。私たちが、神に造られた目的に生きるなら、そこに充実感と幸せがあります。神の視点から見たら、これが最高の成功なのです。
5、神の恵み
サムソンは、ただ神の恵みによって殿堂入りを果たしました。ヘブル11章には、偉大な信仰者たちのリストが並んでいます。なぜ、このリストにサムソンが入れたのでしょうか?ただ神の恵みとしかいいようがありません。『これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』 (ヨハネ11:32~34)
神は、致命的な失敗をし、人生を棒に振った人を用いて、偉大なことを成すことができるのです。人間の世界を考えたらあり得ない事です。みなさん、神が、もし完璧な人だけを用いるとしたら、ここにいる誰一人神に用いられないでしょう。しかし神は、取るに足りない、無きに等しい人、不完全で弱い普通の人、そして、場合によっては、大失態をした人を用いられます。
結論
もし、あなたがサムソンだとしたら、彼が最期に行ったような大勝利を治めたいと思わないでしょうか?そのためにはどうしたら良いでしょうか?
①小さな事も、大きな事も、どんなことも神に委ね切りましょう。
②神は、あなたの可能性を阻んでいる自己中心を打ち砕き、あなたを用いられます。
③サムソンの弱さと失敗を見て、自分に思い当たるものはないでしょうか? ( )
④神があなたに与えられるセカンドチャンスを、どう生かしたいですか? ( )
★今日の聖書箇所 「士師記13章2節~5節」
13:2 さて、ダン人の氏族で、その名をマノアというツォルアの出のひとりの人がいた。彼の妻は不妊の女で、子どもを産んだことがなかった。
13:3 主の使いがその女に現われて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。
13:4 今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。
13:5 見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」
説教題:「トラブルに巻き込まれない秘訣」
聖書箇所:士師記13章2節~5節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
今日のメッセージの主人公である「サムソン」は、20年間イスラエルを治めた指導者です。士師記13章を見ると、御使いがサムソンの両親の前に現れて、『見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。・・・彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。』 (3節と5節)と預言をするところからはじまります。夫婦には子どもがなく、母親は不妊でした。神は、そんな夫婦に、将来イスラエルの士師になる息子サムソンを奇跡的に与えて下さいました。成人したサムソンは、御使いの預言通りに、20年間イスラエルで士師を務めました。士師とは、軍隊の長であり、部族の指導者です。/この当時、イスラエルはペリシテ人と敵対関係にありました。
サムソンは、並外れた力、卓越した才能、素晴らしい容姿を持ち、神との特別な関係が与えられていました。指導者に必要なすべてを備えていました。しかし、サムソンには致命的な問題がありました。自己中心さです。サムソンは、生涯、自分というその敵に悩まされ続けました。ついには、人生を棒に振ってしまいました。/残念ですが、人間は数千年前から少しも進化していません。私たちも、サムソンと何も変わりません。自己中心という弱さに翻弄されています。/サムソンは、その人生の中で何度か取り返しのつかない選択をしてしまいました。その失敗から、私たちが共通して陥りやすい罠を見極めて、今後、トラブルに巻き込まれない生き方をしていくことができたら幸いです。
1、失敗から学べ
サムソンの生涯から得る教訓の第一は、「失敗から学べ」ということです。サムソンは2つの弱さを抱えていました。
①「怒りっぽさ」
②「過度の性欲」です。
サムソンは、とても激しい性格の持ち主でした。しばしば怒りに任せて誤まった行動を取りました。その根本にあるのは自己中心です。「やられたらやり返す!」という復讐心という動機で失敗を繰り返しました。自分の妻を影で口説いたことで、三十着の着物と三十着の晴れ着を渡さなければならなくなったので、三十人を殺して、着物を奪い取って渡すという残忍な行動を取りました。(士師14章)また、復讐のために、三百匹のジャッカルを二匹ずつしっぽを結びつけ、そこにたいまつを取り付けて畑に火を放ちました。サムソンの怒りの動機は、いつも復讐心でした。
次に、サムソンは、肉体的には頑強なのに、女性にはとても弱かったのです。神の教えを自覚的に無視し、情けないほど女性問題で失敗を繰り返しました。サムソンの心には、「いかに火傷をしないで火遊びをするか」を考えていたのでしょう。しかし、何度火傷をしても、その失敗から何一つ学ぶことなく、同じ過ちを繰り返しました。ある日、売春婦の「デリラ」と知り合って、いつものように火遊びを楽しみました。デリラはサムソンが持つ特別な力の秘密を探って、何度もしつこく「教えてほしい」と尋ねました。ついに秘密をもらしてしまいました。サムソンは火遊びのつもりでしたが、このことから大変な大火傷を負い、取り返しの付かないことになってしまいました。/私たちも、サムソンと同じように、火傷をしない程度の火遊びをすることはないでしょうか。「一回だけだから・・・」と。誰もその一回が取り返しの付かない命取りになるとは考えもしないでしょう。しかし、失敗とは、そのような形で忍び寄ってきて、「あと一回・・・」「今日で最後・・・」といっている間に、取り返しの付かないことになってしまうのです。/ある人は、「このことはどうしてもやめられないのです。何度も何度も努力しましたが無理でした。」といいます。あなたも同じようにいわれるかも知れません。しかし神は、その問題と正面から向き合う時に、必ず導きと助けと解決を与えて下さいます。神にできないことはありません。
2、友を選べ
サムソンの生涯から得る教訓の第二は、「友を選べ」ということです。聖書は、『思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。』 (第一コリント15:33)と書かれています。また、ことわざにも「朱に交われば赤くなる」とあります。人は、交わり、触れ続けるものに似ていくのです。「似た者夫婦」といわれますが、一緒に居る事で二人は似ていくのです。これから結婚する人は、神の導きに従って相手を慎重に選びましょう。しかし、簡単に考えやすいですが、友達選びが重要です。サムソンを破滅に追いやったのは、彼の交友関係にあったのです。サムソンは、神からの特別な使命が与えられていましたが、不健全な友達の影響を受け手、道を踏み外してしまいました。/みなさん、今あなたが付き合っている友人が、神様との関係を妨げているということはないでしょうか?神に対する献身度、純真さ、熱心さ。日曜日の礼拝を捧げる姿勢。献金を捧げる心。伝道などを邪魔しているとしたら、その関係は健全ではありません。もちろん、未信者を伝道し、イエス様に導くことは大切です。しかし、友として悪い影響を受けるべきではありません。私たちは、互いにあるべき姿で生きられるように建て上げ合い、励まし合い、成長し合える友人を持つべきです。これから結婚する人は、相手を慎重に選んで下さい。私たちは、サムソンの失敗から学びたいものです。
3、神を第一にせよ
サムソンの生涯から得る教訓の第三は、「神を第一にせよ」です。サムソンの生涯を貫いているのは、神に対する無関心さ、無頓着さです。おそらく、その人生の中で神を第一に生きたということは一度もなかったのではないでしょうか。
その特徴は、
①「自己中心」
②「祈らない」
③「神を利用する」です。
まず、サムソンは、いつも自分のためだけに生きていました。本能の赴くままに行動していました。神は、サムソンに素晴らしい人生を計画しておられました。しかしサムソンは、神のその計画に無関心で、無頓着でした。適当に扱い、真剣に考えたことはありませんでした。その結果、人生を台無しにしてしまいました。20年間もイスラエルの士師を務めたのに、敵であるペリシテ人を追い払うことができず、最後は、彼らに殺されてしまったのです。
次に、サムソンは、死ぬ直前の最期を除いて、神に真剣に祈ったことがありませんでした。最期とは、二本の柱をつかんでペリシテ人の宮殿を倒壊させた時のことです。それ以外は、いつも心のままに生きました。神の指示を仰ぐことなく、怒りっぽく、衝動的であり、やりたいことはやり通しました。
最後に、サムソンは、いつも神を利用しました。しかし、窮地に追い詰められるまで神に心を向けることはありませんでした。困った時の神頼みです。クリスチャンの中に、表面的に見ると熱心で、神によく仕えているように映っても、実際は、自己実現に熱心なだけで、神を便利屋さんとして利用しているに過ぎない人が居ます。/サムソンは、人生の最期を迎えるまで、自己中心であり、祈ることをせず、神を利用する生き方しかしてきませんでした。ペリシテ人に捕らえられて、両目をえぐり出されて、家畜が挽いていた石臼を挽かされるようになった時にはじめて目を覚まし、真剣になりました。すべてが崩壊し、「時すでに遅し」という時になって、ついに祈りました。もしサムソンが、はじめから神を第一にして、祈り、神に仕えていたならば、その人生はどれだけ祝福されたことでしょう。神を後回しにした生き方が、無限の可能性を閉ざし、信用を失わせ、自由を奪われ、征服するべき敵地で奴隷にされてしまったのです。聖書は、『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』 (ガラテヤ6:7)と語ります。
4、神は見捨てられない
もし、サムソンの話がここで終わってしまったとしたら、単に「悪いことをした結果、悪いことが起こった」という因果応報と、サムソンを反面教師に、「このような生き方をしてはならない」という希望のない結末ですが、そうではありません。ペリシテ人によって切り落とされ、そり落とされた髪の毛は、神との契約のしるしでした。髪の毛に力があったのではなく、神との関係を外面的に現すしるしでした。サムソンは、ペリシテ人の手で髪の毛を落とされる前に、すでに心の中では神との関係は切られていたのです。しかし、サムソンは悔い改め、真剣に神に祈り求めました。そうしたら、外面的なしるしが現れました。『しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。』 (士師16:22)サムソンは、もう一度人生をやり直したのです。神は、サムソンの願いを聞き届けられました。再びサムソンは力を受けて、素晴らしい勝利を得て人生の幕を閉じることができたのです。
サムソンは、ペリシテ人の神ダゴン大神殿に連れて行かれました。数千人のペリシテ人が彼をあざけり、イスラエルの神をからかうために集まっていました。サムソンは、大神殿を支えている二本の中柱の真ん中に立ち、その柱をつかみながら神に祈りました。神は祈りに答えられて、サムソンが力を振り絞って二本の柱を押すと、大神殿は倒壊し、サムソンもしに増したが、そこに居たペリシテ人全員が共に死にました。サムソンは、悲しい最期を迎えたようですが、存命中の働きをはるかにしのぐ偉業を成し遂げ、ついには、敵に打ち勝つことができたのです。ことわざに、「肉を切らせて骨を断つ」とありますが、命をかけて使命を果たすことができました。『サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。』 (士師16:29~30)とあります。
ここに慰めがあります。もしかしたら、「私は人生において、取り返しが付かないような大きな失敗をしてしまった」と悔やむことはないでしょうか。そんな時、サムソンを思い出して下さい。神は、サムソンを見捨てることはありませんでした。神は、あなたを忘れていません。あなたを見捨てることはありません。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』 (ヘブル13:5)『わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。』 (ヨハネ14:18)また、神は、あなたに与えられた可能性と、あなたが造られた目的を決して忘れることがありません。あなたが自己中心を捨てて、神に立ち返り、神の国と神の義を第一に求めるならば、無限の可能性と与えられた使命を発見することができるはずです。私たちが、神に造られた目的に生きるなら、そこに充実感と幸せがあります。神の視点から見たら、これが最高の成功なのです。
5、神の恵み
サムソンは、ただ神の恵みによって殿堂入りを果たしました。ヘブル11章には、偉大な信仰者たちのリストが並んでいます。なぜ、このリストにサムソンが入れたのでしょうか?ただ神の恵みとしかいいようがありません。『これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』 (ヨハネ11:32~34)
神は、致命的な失敗をし、人生を棒に振った人を用いて、偉大なことを成すことができるのです。人間の世界を考えたらあり得ない事です。みなさん、神が、もし完璧な人だけを用いるとしたら、ここにいる誰一人神に用いられないでしょう。しかし神は、取るに足りない、無きに等しい人、不完全で弱い普通の人、そして、場合によっては、大失態をした人を用いられます。
結論
もし、あなたがサムソンだとしたら、彼が最期に行ったような大勝利を治めたいと思わないでしょうか?そのためにはどうしたら良いでしょうか?
①小さな事も、大きな事も、どんなことも神に委ね切りましょう。
②神は、あなたの可能性を阻んでいる自己中心を打ち砕き、あなたを用いられます。
③サムソンの弱さと失敗を見て、自分に思い当たるものはないでしょうか? ( )
④神があなたに与えられるセカンドチャンスを、どう生かしたいですか? ( )
★今日の聖書箇所 「士師記13章2節~5節」
13:2 さて、ダン人の氏族で、その名をマノアというツォルアの出のひとりの人がいた。彼の妻は不妊の女で、子どもを産んだことがなかった。
13:3 主の使いがその女に現われて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。
13:4 今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。
13:5 見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」
2016年07月03日
2016年6月26日 日曜礼拝 説教要約
2016年6月26日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「姦淫の現行犯で捕まった女」
聖書箇所:ヨハネの福音書7章53節~8章11節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
前回までのヨハネの福音書のシリーズのメッセージは、「仮庵の祭りに出現するイエス」というテーマで3回連続で学びました。今日は、仮庵の祭りが終わり、その翌日の出来事について学びます。状況は指導者たちがイエスを罠にかけるというシチュエーションです。
1、状況の説明 (7章53節~8章2節)
(1)7章53節~8章2節・・・『そして人々はそれぞれ家に帰った。イエスはオリーブ山に行かれた。』
①祭りが終わり、人々は帰宅した
祭りの中でイエスと出会って、イエスを信じる人も居たが、大半はイエスを信じなかった。しかし、指導者たちは、イエスを早く捕らえなければいけないと強い危機感を抱くようになった。
②接続詞 「そして~、しかし~」
7章53節と8章1節の頭には接続詞が付いていますが、日本語の新改訳には、8章1節の頭の接続詞が省略されています。「そして人々はそれぞれ家に帰った。しかし、イエスはオリーブ山に行かれた。」です。人々には帰る家があったが、イエスには帰る家が地上にはなかった。イエスご自身が次のように語られました。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』 (ルカ9:58)ベタニヤには、マルタ、マリア、ラザロの3兄弟の住む家があり、しばしばその家に泊めてもらうことがあったが、多くの場合、オリーブ山で過ごされた。「しかし、イエスはオリーブ山に行かれた。」
(2)2節・・・『そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。』
①イエスは、オリーブ山を下り宮に入られた
オリーブ山からエルサレムの神殿までの距離は、成人男性の足で歩いて20~30分くらい。
②イエスは同じようなスケジュールで人々に御言葉を教えられた
『さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。』(ルカ21:37~38)
ゆえに、指導者たちは、いつ頃宮に行けばイエスがいるかを知っていた。
2、指導者たちはイエスを罠にかけようとする (3節~6節)
(1)3~5節・・・『すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」』
①姦淫の現行犯で逮捕された女が連れてこられる
イエスは宮で民衆たちに教えておられるところに、指導者たちが姦淫の現行犯で捕まえられた女を連れてきた。
②姦淫の罪を証言する複数の証人も一緒に来た
『どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。』 (申命記19:15)
③姦淫の罪が発覚したら石打で処刑されなければいけなかった
『人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。』 (レビ記20:10)
④イエスがこの女をどう裁くかを試した
指導者たちはイエスに、『モーセの律法によれば、このような罪を犯した者たちは石打に当たるが、あなたはどう裁くのか?』と問うた。
(2)6節・・・『彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。』 (6節)
①イエスを告発する口実を得ようとしていた
指導者たちは、イエスを何とか捕らえようとしたが口実が見つからなかったため、姦淫の女を使って罠にはめようと考えていた。
「この女を石で打て!」といっても、「この女を赦せ!」といっても罠にかかるように仕組まれていた。
②もしイエスが、「この女を石で打て」と裁いたら?
ⅰ・・・モーセの律法には石打ちが命じられていた。イエスが「この女を石で打て!」と命じたなら、「あなたは、常々愛と赦しを解いていたではないか、そのあなたの教えに反するのではないか!?」と非難し、大衆の支持を失わせようとしていた。
ⅱ・・・さらに、ユダヤ人たちは、ローマによって死刑執行の権利が奪われていました。イエスが「石で打て!」と命じたならば、
イエスをローマに訴えることでイエスを捕らえる口実を得ようとしていた。
③もしイエスが、「この女を赦せ」と宣言したら?
ⅰ・・・イエスは、『この方は恵みとまことに満ちておられた。』 (ヨハネ1:14)と聖書で語られた通りである事を指導者たちも知り、認めていた。それは次の聖句からもわかる。『パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」』 (マルコ2:16)と非難していたくらいであった。
ⅱ・・・しかし、イエスが姦淫を犯した女に赦しを宣言したとしたら、「あなたはモーセの律法に反することを教えるのか?あなたは神からの教師ではない。ゆえに、神の子でも、メシアでもない!」と大衆の支持を失わせよとしていた。
3、イエスの答え (6節~8節)
(1)6~8節・・・『彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。』
①イエスは身をかがめて、地面に何かを書かれた
何を書いておられたかは書かれていないが、モーセの十戒を書かれていたか、指導者たちの罪を書かれていたか、しゃがんで、意味のある何かを書いておられたのでしょう。イエスが、字の読み書きができたことは確かである。
②「指で」書かれた
モーセの律法は613個あったが、そのうちの10の言葉である十戒だけが神の指によって石板に書き記された。「汝、姦淫するなかれ」は、十戒の7番目に書かれている。イエスは、神としてその指で神の言葉を書かれたのかも知れない。
③視点の転移
当初は、人々の視線が姦淫の女一点に向けられていた。恥ずかしかったに違いない。しかし、イエスがしゃがんで何かを書かれることで、人々の視線はイエスに向けられた。女をかばった。ここにイエスの愛がある。
④女と同じ目線になられた
イエスがしゃがんで、地面にかかれたことによって、打ち倒された女と同じ視点になられた。ここにもイエスの愛がある。
(2)7~8節・・・『けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者
が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。』
①イエスは罪に対する裁きを否定しているわけではない
ⅰ・・・イエスは、「打て!」とも「赦せ!」ともいっていない。ゆえに、裁きを否定している訳ではない。
ⅱ・・・「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」という言葉は、玉虫色の曖昧な答えをしている訳ではない。彼らは、イエスを陥れようとし、裁きの動機も手順も間違っていることを知った上で語られた。
ⅰ・・・イエスの言葉は、愛という律法の精神に乗っ取って指導者たちを裁かれた。
4、結末 (9節~12節)
(1)9節・・・『彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。』
①罪を訴えた指導者と証人たち全員が去っていった
イエスの言葉を聞いて、年長者たちから順番に去っていった。年を取る事は、罪を自覚する時間を生きること。おそらく、実際に姦淫を犯した人は居なかったしょう。しかし、同じ罪を心に宿していたのです。罪を自覚しなければ、立ち去ることはなかったからです。
②告訴は取り下げられた
罪を訴える指導者たちと証人たちが立ち去ったことで、告訴は取り下げられた。
(2)10~11節・・・『イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕』
①イエスは罪を赦す権威を持たれたお方である
イエスは、罪を赦す権威を持っておられるが、だからといって罪を水に流し、大目に見るというようなことをされたのではない。イエスはこの後、十字架にかかって、この女の姦淫の罪の身代わりとなって死に、罪の代価を支払おうとされていた。
②指導者たちはプライドが砕かれた
指導者たちは罪を自覚させられ、立ち去ることになり、その後、イエスに罠をかけたり、挑むことはしなかった。
結論
1、人の罪を告訴する心理状態
(1)自分より大きな罪を犯していると思える人を見ると、裁きたくなる。
(2)比較して自分の方がマシに思えると、「私は正しい」と思いたくなる。
(3)人の罪を見つけることで、喜びを感じる。
2、すべての人は罪人である・・・「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)
(1)一つの罪を犯しても全部の罪を犯したのと同じ罪人である。ゆえに、義人はいない。
(2)イエスは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれた。その事実を信じるなら、赦され、救われ、神の子とされる。
3、イエスの言葉の真意
(1)「罪のない者が石を投げよ」との言葉を、罪を擁護する言い訳に使ってはならない。そういう意味で語られたのではない。
(2)人を裁く手順・・・『もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。』 (マタイ18:15~17)
①被害者と加害者が1:1で会う。②1~2人の証人を連れて会う。③所属教会に告げて対処してもらう。④教会の交わりから追放する。
4、イエスはどういうお方か?
(1)イエスは、『恵みとまことに満ちておられた。』(ヨハネ1:14)どちらかに偏ることなく、恵みとまことで充満であられた。
(2)「まこと」は罪を裁き、「もう罪を犯してはならない」と語られた。
(3)「恵み」は、罪を赦し、その罪の身代わりに十字架で死なれた。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書7章53節8章~11節」
7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
説教題:「姦淫の現行犯で捕まった女」
聖書箇所:ヨハネの福音書7章53節~8章11節(聖句は裏面一番下にあります。)
説教者:菅野直基牧師
前回までのヨハネの福音書のシリーズのメッセージは、「仮庵の祭りに出現するイエス」というテーマで3回連続で学びました。今日は、仮庵の祭りが終わり、その翌日の出来事について学びます。状況は指導者たちがイエスを罠にかけるというシチュエーションです。
1、状況の説明 (7章53節~8章2節)
(1)7章53節~8章2節・・・『そして人々はそれぞれ家に帰った。イエスはオリーブ山に行かれた。』
①祭りが終わり、人々は帰宅した
祭りの中でイエスと出会って、イエスを信じる人も居たが、大半はイエスを信じなかった。しかし、指導者たちは、イエスを早く捕らえなければいけないと強い危機感を抱くようになった。
②接続詞 「そして~、しかし~」
7章53節と8章1節の頭には接続詞が付いていますが、日本語の新改訳には、8章1節の頭の接続詞が省略されています。「そして人々はそれぞれ家に帰った。しかし、イエスはオリーブ山に行かれた。」です。人々には帰る家があったが、イエスには帰る家が地上にはなかった。イエスご自身が次のように語られました。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』 (ルカ9:58)ベタニヤには、マルタ、マリア、ラザロの3兄弟の住む家があり、しばしばその家に泊めてもらうことがあったが、多くの場合、オリーブ山で過ごされた。「しかし、イエスはオリーブ山に行かれた。」
(2)2節・・・『そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。』
①イエスは、オリーブ山を下り宮に入られた
オリーブ山からエルサレムの神殿までの距離は、成人男性の足で歩いて20~30分くらい。
②イエスは同じようなスケジュールで人々に御言葉を教えられた
『さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。』(ルカ21:37~38)
ゆえに、指導者たちは、いつ頃宮に行けばイエスがいるかを知っていた。
2、指導者たちはイエスを罠にかけようとする (3節~6節)
(1)3~5節・・・『すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」』
①姦淫の現行犯で逮捕された女が連れてこられる
イエスは宮で民衆たちに教えておられるところに、指導者たちが姦淫の現行犯で捕まえられた女を連れてきた。
②姦淫の罪を証言する複数の証人も一緒に来た
『どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。』 (申命記19:15)
③姦淫の罪が発覚したら石打で処刑されなければいけなかった
『人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。』 (レビ記20:10)
④イエスがこの女をどう裁くかを試した
指導者たちはイエスに、『モーセの律法によれば、このような罪を犯した者たちは石打に当たるが、あなたはどう裁くのか?』と問うた。
(2)6節・・・『彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。』 (6節)
①イエスを告発する口実を得ようとしていた
指導者たちは、イエスを何とか捕らえようとしたが口実が見つからなかったため、姦淫の女を使って罠にはめようと考えていた。
「この女を石で打て!」といっても、「この女を赦せ!」といっても罠にかかるように仕組まれていた。
②もしイエスが、「この女を石で打て」と裁いたら?
ⅰ・・・モーセの律法には石打ちが命じられていた。イエスが「この女を石で打て!」と命じたなら、「あなたは、常々愛と赦しを解いていたではないか、そのあなたの教えに反するのではないか!?」と非難し、大衆の支持を失わせようとしていた。
ⅱ・・・さらに、ユダヤ人たちは、ローマによって死刑執行の権利が奪われていました。イエスが「石で打て!」と命じたならば、
イエスをローマに訴えることでイエスを捕らえる口実を得ようとしていた。
③もしイエスが、「この女を赦せ」と宣言したら?
ⅰ・・・イエスは、『この方は恵みとまことに満ちておられた。』 (ヨハネ1:14)と聖書で語られた通りである事を指導者たちも知り、認めていた。それは次の聖句からもわかる。『パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」』 (マルコ2:16)と非難していたくらいであった。
ⅱ・・・しかし、イエスが姦淫を犯した女に赦しを宣言したとしたら、「あなたはモーセの律法に反することを教えるのか?あなたは神からの教師ではない。ゆえに、神の子でも、メシアでもない!」と大衆の支持を失わせよとしていた。
3、イエスの答え (6節~8節)
(1)6~8節・・・『彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。』
①イエスは身をかがめて、地面に何かを書かれた
何を書いておられたかは書かれていないが、モーセの十戒を書かれていたか、指導者たちの罪を書かれていたか、しゃがんで、意味のある何かを書いておられたのでしょう。イエスが、字の読み書きができたことは確かである。
②「指で」書かれた
モーセの律法は613個あったが、そのうちの10の言葉である十戒だけが神の指によって石板に書き記された。「汝、姦淫するなかれ」は、十戒の7番目に書かれている。イエスは、神としてその指で神の言葉を書かれたのかも知れない。
③視点の転移
当初は、人々の視線が姦淫の女一点に向けられていた。恥ずかしかったに違いない。しかし、イエスがしゃがんで何かを書かれることで、人々の視線はイエスに向けられた。女をかばった。ここにイエスの愛がある。
④女と同じ目線になられた
イエスがしゃがんで、地面にかかれたことによって、打ち倒された女と同じ視点になられた。ここにもイエスの愛がある。
(2)7~8節・・・『けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者
が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。』
①イエスは罪に対する裁きを否定しているわけではない
ⅰ・・・イエスは、「打て!」とも「赦せ!」ともいっていない。ゆえに、裁きを否定している訳ではない。
ⅱ・・・「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」という言葉は、玉虫色の曖昧な答えをしている訳ではない。彼らは、イエスを陥れようとし、裁きの動機も手順も間違っていることを知った上で語られた。
ⅰ・・・イエスの言葉は、愛という律法の精神に乗っ取って指導者たちを裁かれた。
4、結末 (9節~12節)
(1)9節・・・『彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。』
①罪を訴えた指導者と証人たち全員が去っていった
イエスの言葉を聞いて、年長者たちから順番に去っていった。年を取る事は、罪を自覚する時間を生きること。おそらく、実際に姦淫を犯した人は居なかったしょう。しかし、同じ罪を心に宿していたのです。罪を自覚しなければ、立ち去ることはなかったからです。
②告訴は取り下げられた
罪を訴える指導者たちと証人たちが立ち去ったことで、告訴は取り下げられた。
(2)10~11節・・・『イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕』
①イエスは罪を赦す権威を持たれたお方である
イエスは、罪を赦す権威を持っておられるが、だからといって罪を水に流し、大目に見るというようなことをされたのではない。イエスはこの後、十字架にかかって、この女の姦淫の罪の身代わりとなって死に、罪の代価を支払おうとされていた。
②指導者たちはプライドが砕かれた
指導者たちは罪を自覚させられ、立ち去ることになり、その後、イエスに罠をかけたり、挑むことはしなかった。
結論
1、人の罪を告訴する心理状態
(1)自分より大きな罪を犯していると思える人を見ると、裁きたくなる。
(2)比較して自分の方がマシに思えると、「私は正しい」と思いたくなる。
(3)人の罪を見つけることで、喜びを感じる。
2、すべての人は罪人である・・・「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)
(1)一つの罪を犯しても全部の罪を犯したのと同じ罪人である。ゆえに、義人はいない。
(2)イエスは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれた。その事実を信じるなら、赦され、救われ、神の子とされる。
3、イエスの言葉の真意
(1)「罪のない者が石を投げよ」との言葉を、罪を擁護する言い訳に使ってはならない。そういう意味で語られたのではない。
(2)人を裁く手順・・・『もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。』 (マタイ18:15~17)
①被害者と加害者が1:1で会う。②1~2人の証人を連れて会う。③所属教会に告げて対処してもらう。④教会の交わりから追放する。
4、イエスはどういうお方か?
(1)イエスは、『恵みとまことに満ちておられた。』(ヨハネ1:14)どちらかに偏ることなく、恵みとまことで充満であられた。
(2)「まこと」は罪を裁き、「もう罪を犯してはならない」と語られた。
(3)「恵み」は、罪を赦し、その罪の身代わりに十字架で死なれた。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書7章53節8章~11節」
7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕
2016年06月25日
2016年6月19日 父の日記念礼拝 説教要約
2016年6月19日 父の日記念礼拝 説教要約
説教題:「敵に打ち勝つ戦士になれ!」
聖書箇所:第一サムエル17章1節~58節
説教者:菅野直基牧師
ある日、エラの谷に、敵であるペリシテ人ゴリアテ軍がやって来ました。ゴリアテの背の高さは2m86cm、57kgのよろいを身に付けて、宣戦布告しました。「俺と一対一で戦え!お前らが俺に勝ったら俺たちはお前たちの奴隷となってもいい。しかし、もし、お前たちが負けたら、お前たちは俺たちの奴隷になれ!」。そこにいたイスラエル軍は、ゴリアテを見て萎縮し、怯えて、一言も言葉を返しませんでした。そこに、軍隊の一人として戦っているお兄さんに弁当を届けるために、少年であったダビデがやって来ました。ダビデは怯えて萎縮しているイスラエル軍と、対照的に、偉そうに振舞っているゴリアテとペリシテ軍を見て違和感を覚え、憤りました。イスラエル軍の大将のサウル王に、「ゴリアテとの戦いに私が出陣したい!」と申し出ました。サウルは、「お前は戦争の経験がないから無理だ!」とダビデを過小評価しましたが、ダビデのあまりの勇敢な態度に心動かされ、「よし行ってこい!」と命令を下しました。ダビデは、5つの石を用意して、それをパチンコで投げ飛ばすと、ゴリアテのこめかみにあたり、ゴリアテを地に打ち倒し、さらに、ゴリアテが持っていた剣を抜いてとどめを刺しました。今日は父の日ですが、父は、このダビデのように勇敢でありたいものです。
1、私たちに挑んでくるゴリアテ
私たちが置かれている場所は、霊的なエラの谷です。いつゴリアテがやって来ても、戦いの準備ができているでしょうか?
①「罪と罪責感」というゴリアテは、たえず私たちを罪に誘惑します。しかし、罪を犯した人には罪責感を持って徹底的に攻め込んで来ます。みなさん、罪と罪責感というゴリアテに立ち向かわなければなりません。子供の頃、川や池に石を投げて遊びました。大きな石を投げても、小さな石を投げも、水面に波紋を作って、最後は沈んでしまいます。波紋の大きさの違いはありますが、大きな石も小さな石も池の底に沈みます。同じように、私たちには大なり小なりの罪があります。罪は罪です。大きさの違いがあっても、必ず地獄に落ちてしまいます。しかし、その地獄の刑罰をイエス・キリストが身代わりに背負って死んで下さいました。今日悔い改めることで、完全に罪との関係を切ることができ、罪責感からも解放されます。まず悔い改めることが必要です。次に、罪に誘惑し、罪責感を持ってくるゴリアテを打ち倒しましょう。
②次に、「人を赦さない心」というゴリアテが圧迫してきます。過去を思い出すたびに、あなたを裏切り、傷つけた人の顔が思い浮かぶことでしょう。赦せない思いが心を占領するかも知れません。しかし、そのままゴリアテを放置していたら、赦せない心は憎しみに変わり、復讐心にまで発展してしまいます。「罪を憎んで、人を憎まず」です。なぜならば、神は私たちの罪を憎まれましたが、私たちを愛されたので、罪もろとも裁いて滅ぼしたのではなく、一人子イエスを十字架で罪と共に裁き、罪を清算して下さいました。自分自身が赦されたように、隣人の罪を赦さなければなりません。しかし、ただ赦すだけでは、憎しみと怒りの心を処理することはできません。我慢して、泣き寝入りするのではなく、復讐を神に委ねるのです。神は、「復讐するは我にあり!」と語られます。復讐を神に完全に委ねましょう。私たち自身で手を汚す必要はありません。私たちがすることは、愛し、赦し、祝福することです。そうやってゴリアテを倒すのです。
③次に、「恐れる心」というゴリアテがやって来ます。聖書には、「恐れには刑罰が伴う」と語ります。つまり、恐れの心を抱き続けるならば、その恐れた内容が自分の身に降りかかるという刑罰が与えられるというのです。私たちは、この恐れを解決しなくてはいけません。アメリカの32代大統領であるフランクリン・ルーズベルトは、「私たちが恐れなければならないのは、恐れを持つこと事態に対してである。」と語りました。どうしたらいいでしょうか? ありのままの神を知り、神を信頼し、神に全てを委ねることです。神にまかせたら何も恐れる必要はありません。神はいつも共におられます。
④「否定的な考え」というゴリアテがやって来ます。否定的な考えは、傷つかず、安全であり、説得力があります。しかし、否定的な考えのゴリアテに心を占領させてしまったら、すべてがストップしてしまいます。否定的な考えは否定的な言葉を生み出し、否定的な言葉は否定的な行動を生み出し、やがて否定的な生き方が習慣となり、それが運命となってしまいます。「キリストにどんなことでもよってできる!」「大丈夫だ!」と、信仰と信仰の告白によって、否定的な考えを粉々に砕いてしまいましょう。ゴリアテは虚像であり、いつわりです。// 次に、ゴリアテと戦う方法を考えます。
2、使い慣れた武器を使いましょう。
ダビデがゴリアテと戦う直前に、サウル王は自分のよろいをダビデに着せました。しかしダビデは、使い慣れていなかったので、すぐによろいを脱ぎ捨てて、使い慣れたパチンコと5つの石を手に取り、「勝利の宣言」をし、間髪いれずに戦場に向かいました。パチンコを振り回し、一発の石でゴリアテのこめかみに食い込ませてノックダウンさせました。ゴリアテは、よろいを着ていましたので、こめかみの部分以外に当てても、カチン!と跳ね返されてしまうだけです。ダビデは、いつも使い慣れた武器を使ったので、確実に急所をしとめることができました。みなさん、私たちに取ってのなれた武器とは何でしょう? 「パチンコ」はあなた自身であり、「5つの石」は、①聖書の言葉の石 ②聖霊様という石 ③十字架の石 ④祈りの石 ⑤賛美の石です。大切なのは、日常的に使い慣れていることです。試練がやって来る前からいつも聖書通読をし、暗証して下さい。聖霊様といつも共に歩み、十字架を見上げ、祈り、賛美して下さい。使い慣れているならば、どんなゴリアテがあなたに襲い掛かって来ても、しり込みしたり、恐れることなく、ゴリアテを100発100中打ち倒すことができます。大切なのは、神を信頼し、自分に与えられた武器で大丈夫だと信じて、戦うことです。神はあなたに十分な武器と、戦いの勝利をすでに与えられています。それを使いこなしましょう。あなたは勝利者です。
3、ゴリアテと向かい打って戦いましょう。
ダビデ一人なら、この戦いには勝てなかったはずです。しかし、神+ダビデ=敵なしです。ゴリアテはこちらを見下し、軽んじました。ダビデは、「お前がなぶったイスラエルの神の御名によって立ち向かう!」と宣言しました。みなさん、世の中はイエス・キリストを軽んじるかも知れません。しかし、同調してはいけません。ゴリアテはあなたを萎縮させるために、「あなたは勝てない、無能だ、無理だ!」と言って萎縮させようとします。しかし、あなたの心はいつも勇敢でなければなりません。神が共に居られるのです。真っ向からゴリアテと対面し、神と共に戦って下さい。あなたが戦うなら、100%勝利します。あなたが戦うなら、あなたはこの時代の日本のダビデとなり、勝利者であり、支配者となることができます。
4、ゴリアテにとどめを刺しましょう。
ゴリアテを倒した後には、とどめを刺さしましょう。中途半端にやっつけるだけでは、かえって怒り心頭になり、何百倍の復讐をしてきます。イエス・キリストが十字架の上で、罪と悪魔と病と呪いと死にとどめを刺したように、十字架の剣でゴリアテの首を取り、とどめを刺し、神様に首を差し出しましょう。そして、福音伝道によって、完全にとどめをさしましょう。福音は人々を救い、御国を到来させ、地獄を空にし、天国に人を満たします。我らは勝ち得て余りありです。
「本日の聖書箇所」 第一サムエル17章1節~58節
1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。
2 サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。
3 ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。
4 ときに、ペリシテ人の陣営からひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。
5 頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シュケル。
6 足には青銅のすね当て、背中には青銅の投げ槍。
7 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル。盾持ちが彼の先を歩いていた。
8 ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。
9 おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」
10 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりよこせ。ひとつ勝負をしよう。」
11 サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。
12 ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年を取って老人になっていた。
13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出て行った。戦いに行った三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャマであった。
14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていた。
15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を飼うためであった。」
16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て姿を現した。
17 エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。
18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。
19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。」
20 ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。
21 イスラエル人とペリシテ人とは、それぞれ向かい合って陣を敷いていた。
22 ダビデは、その品物を武器を守る者に預け、陣地に走って行き、兄たちの安否を尋ねた。
23 ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガテのペリシテ人で、その名をゴリヤテという代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来て、いつもと同じ文句をくり返した。ダビデはこれを聞いた。
24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。
25 イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」
26 ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」
27 民は、先のことばのように、彼を殺した者には、このようにされる、と答えた。
28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」
29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」
30 ダビデはエリアブから、ほかの人のほうを振り向いて、同じことを尋ねた。すると民は、先ほどと同じ返事をした。
31 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。
32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」
34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」
38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。
39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、
40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。
41 そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。
42 ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。
43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエル人の戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。
51 ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。
52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。
53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。
54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った。武具は彼の天幕に置いた。
55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かって出て行くのを見たとき、将軍アブネルに言った。「アブネル。あの若者はだれの子だ。」アブネルは言った。「王さま。私はあなたに誓います。私は存じません。」
56 すると王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの子か尋ねなさい。」
57 ダビデが、あのペリシテ人を打って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて行った。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。
58 サウルはダビデに言った。「若者。あなたはだれの子か。」ダビデは言った。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です。」
説教題:「敵に打ち勝つ戦士になれ!」
聖書箇所:第一サムエル17章1節~58節
説教者:菅野直基牧師
ある日、エラの谷に、敵であるペリシテ人ゴリアテ軍がやって来ました。ゴリアテの背の高さは2m86cm、57kgのよろいを身に付けて、宣戦布告しました。「俺と一対一で戦え!お前らが俺に勝ったら俺たちはお前たちの奴隷となってもいい。しかし、もし、お前たちが負けたら、お前たちは俺たちの奴隷になれ!」。そこにいたイスラエル軍は、ゴリアテを見て萎縮し、怯えて、一言も言葉を返しませんでした。そこに、軍隊の一人として戦っているお兄さんに弁当を届けるために、少年であったダビデがやって来ました。ダビデは怯えて萎縮しているイスラエル軍と、対照的に、偉そうに振舞っているゴリアテとペリシテ軍を見て違和感を覚え、憤りました。イスラエル軍の大将のサウル王に、「ゴリアテとの戦いに私が出陣したい!」と申し出ました。サウルは、「お前は戦争の経験がないから無理だ!」とダビデを過小評価しましたが、ダビデのあまりの勇敢な態度に心動かされ、「よし行ってこい!」と命令を下しました。ダビデは、5つの石を用意して、それをパチンコで投げ飛ばすと、ゴリアテのこめかみにあたり、ゴリアテを地に打ち倒し、さらに、ゴリアテが持っていた剣を抜いてとどめを刺しました。今日は父の日ですが、父は、このダビデのように勇敢でありたいものです。
1、私たちに挑んでくるゴリアテ
私たちが置かれている場所は、霊的なエラの谷です。いつゴリアテがやって来ても、戦いの準備ができているでしょうか?
①「罪と罪責感」というゴリアテは、たえず私たちを罪に誘惑します。しかし、罪を犯した人には罪責感を持って徹底的に攻め込んで来ます。みなさん、罪と罪責感というゴリアテに立ち向かわなければなりません。子供の頃、川や池に石を投げて遊びました。大きな石を投げても、小さな石を投げも、水面に波紋を作って、最後は沈んでしまいます。波紋の大きさの違いはありますが、大きな石も小さな石も池の底に沈みます。同じように、私たちには大なり小なりの罪があります。罪は罪です。大きさの違いがあっても、必ず地獄に落ちてしまいます。しかし、その地獄の刑罰をイエス・キリストが身代わりに背負って死んで下さいました。今日悔い改めることで、完全に罪との関係を切ることができ、罪責感からも解放されます。まず悔い改めることが必要です。次に、罪に誘惑し、罪責感を持ってくるゴリアテを打ち倒しましょう。
②次に、「人を赦さない心」というゴリアテが圧迫してきます。過去を思い出すたびに、あなたを裏切り、傷つけた人の顔が思い浮かぶことでしょう。赦せない思いが心を占領するかも知れません。しかし、そのままゴリアテを放置していたら、赦せない心は憎しみに変わり、復讐心にまで発展してしまいます。「罪を憎んで、人を憎まず」です。なぜならば、神は私たちの罪を憎まれましたが、私たちを愛されたので、罪もろとも裁いて滅ぼしたのではなく、一人子イエスを十字架で罪と共に裁き、罪を清算して下さいました。自分自身が赦されたように、隣人の罪を赦さなければなりません。しかし、ただ赦すだけでは、憎しみと怒りの心を処理することはできません。我慢して、泣き寝入りするのではなく、復讐を神に委ねるのです。神は、「復讐するは我にあり!」と語られます。復讐を神に完全に委ねましょう。私たち自身で手を汚す必要はありません。私たちがすることは、愛し、赦し、祝福することです。そうやってゴリアテを倒すのです。
③次に、「恐れる心」というゴリアテがやって来ます。聖書には、「恐れには刑罰が伴う」と語ります。つまり、恐れの心を抱き続けるならば、その恐れた内容が自分の身に降りかかるという刑罰が与えられるというのです。私たちは、この恐れを解決しなくてはいけません。アメリカの32代大統領であるフランクリン・ルーズベルトは、「私たちが恐れなければならないのは、恐れを持つこと事態に対してである。」と語りました。どうしたらいいでしょうか? ありのままの神を知り、神を信頼し、神に全てを委ねることです。神にまかせたら何も恐れる必要はありません。神はいつも共におられます。
④「否定的な考え」というゴリアテがやって来ます。否定的な考えは、傷つかず、安全であり、説得力があります。しかし、否定的な考えのゴリアテに心を占領させてしまったら、すべてがストップしてしまいます。否定的な考えは否定的な言葉を生み出し、否定的な言葉は否定的な行動を生み出し、やがて否定的な生き方が習慣となり、それが運命となってしまいます。「キリストにどんなことでもよってできる!」「大丈夫だ!」と、信仰と信仰の告白によって、否定的な考えを粉々に砕いてしまいましょう。ゴリアテは虚像であり、いつわりです。// 次に、ゴリアテと戦う方法を考えます。
2、使い慣れた武器を使いましょう。
ダビデがゴリアテと戦う直前に、サウル王は自分のよろいをダビデに着せました。しかしダビデは、使い慣れていなかったので、すぐによろいを脱ぎ捨てて、使い慣れたパチンコと5つの石を手に取り、「勝利の宣言」をし、間髪いれずに戦場に向かいました。パチンコを振り回し、一発の石でゴリアテのこめかみに食い込ませてノックダウンさせました。ゴリアテは、よろいを着ていましたので、こめかみの部分以外に当てても、カチン!と跳ね返されてしまうだけです。ダビデは、いつも使い慣れた武器を使ったので、確実に急所をしとめることができました。みなさん、私たちに取ってのなれた武器とは何でしょう? 「パチンコ」はあなた自身であり、「5つの石」は、①聖書の言葉の石 ②聖霊様という石 ③十字架の石 ④祈りの石 ⑤賛美の石です。大切なのは、日常的に使い慣れていることです。試練がやって来る前からいつも聖書通読をし、暗証して下さい。聖霊様といつも共に歩み、十字架を見上げ、祈り、賛美して下さい。使い慣れているならば、どんなゴリアテがあなたに襲い掛かって来ても、しり込みしたり、恐れることなく、ゴリアテを100発100中打ち倒すことができます。大切なのは、神を信頼し、自分に与えられた武器で大丈夫だと信じて、戦うことです。神はあなたに十分な武器と、戦いの勝利をすでに与えられています。それを使いこなしましょう。あなたは勝利者です。
3、ゴリアテと向かい打って戦いましょう。
ダビデ一人なら、この戦いには勝てなかったはずです。しかし、神+ダビデ=敵なしです。ゴリアテはこちらを見下し、軽んじました。ダビデは、「お前がなぶったイスラエルの神の御名によって立ち向かう!」と宣言しました。みなさん、世の中はイエス・キリストを軽んじるかも知れません。しかし、同調してはいけません。ゴリアテはあなたを萎縮させるために、「あなたは勝てない、無能だ、無理だ!」と言って萎縮させようとします。しかし、あなたの心はいつも勇敢でなければなりません。神が共に居られるのです。真っ向からゴリアテと対面し、神と共に戦って下さい。あなたが戦うなら、100%勝利します。あなたが戦うなら、あなたはこの時代の日本のダビデとなり、勝利者であり、支配者となることができます。
4、ゴリアテにとどめを刺しましょう。
ゴリアテを倒した後には、とどめを刺さしましょう。中途半端にやっつけるだけでは、かえって怒り心頭になり、何百倍の復讐をしてきます。イエス・キリストが十字架の上で、罪と悪魔と病と呪いと死にとどめを刺したように、十字架の剣でゴリアテの首を取り、とどめを刺し、神様に首を差し出しましょう。そして、福音伝道によって、完全にとどめをさしましょう。福音は人々を救い、御国を到来させ、地獄を空にし、天国に人を満たします。我らは勝ち得て余りありです。
「本日の聖書箇所」 第一サムエル17章1節~58節
1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。
2 サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。
3 ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。
4 ときに、ペリシテ人の陣営からひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。
5 頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シュケル。
6 足には青銅のすね当て、背中には青銅の投げ槍。
7 槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル。盾持ちが彼の先を歩いていた。
8 ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。
9 おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」
10 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりよこせ。ひとつ勝負をしよう。」
11 サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。
12 ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年を取って老人になっていた。
13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出て行った。戦いに行った三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャマであった。
14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていた。
15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を飼うためであった。」
16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て姿を現した。
17 エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。
18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。
19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。」
20 ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。
21 イスラエル人とペリシテ人とは、それぞれ向かい合って陣を敷いていた。
22 ダビデは、その品物を武器を守る者に預け、陣地に走って行き、兄たちの安否を尋ねた。
23 ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガテのペリシテ人で、その名をゴリヤテという代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来て、いつもと同じ文句をくり返した。ダビデはこれを聞いた。
24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。
25 イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」
26 ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」
27 民は、先のことばのように、彼を殺した者には、このようにされる、と答えた。
28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」
29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」
30 ダビデはエリアブから、ほかの人のほうを振り向いて、同じことを尋ねた。すると民は、先ほどと同じ返事をした。
31 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。
32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」
34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」
38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。
39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、
40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。
41 そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。
42 ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。
43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエル人の戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。
51 ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。
52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。
53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。
54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った。武具は彼の天幕に置いた。
55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かって出て行くのを見たとき、将軍アブネルに言った。「アブネル。あの若者はだれの子だ。」アブネルは言った。「王さま。私はあなたに誓います。私は存じません。」
56 すると王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの子か尋ねなさい。」
57 ダビデが、あのペリシテ人を打って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて行った。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。
58 サウルはダビデに言った。「若者。あなたはだれの子か。」ダビデは言った。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です。」
2016年06月15日
2016年6月12日 日曜礼拝 説教要約
2016年6月12日 日曜礼拝 説教要約
説教題:「仮庵の祭に出現するイエス【3】」
聖書箇所:ヨハネの福音書7章37節~52節
説教者:菅野直基牧師
少し前に、イエスはガリラヤ湖の湖畔で5000人の給食の奇跡を行いました。そのことがきっかけで、群衆の中に「イエスを王にしよう!」という動きが起こりました。イエスは一人山に退きました。弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出しますが、嵐に巻き込まれました。そこに、山に居たはずのイエスがガリラヤ湖にワープするかのようにして現われ、窮地を救われました。舟にイエスが乗った途端、嵐は静まり、まもなくカペナウムに到着しました。翌日、カペナウムの会堂で、イエスは「いのちのパンの説教」を語りました。その説教を聞いた群集のほとんどがイエスから離れ、弟子の多くもイエスから離れて行きました。その後、「仮庵の祭り」の時期になったので、イエスはエルサレムに向かいました。今日は、その「仮庵の祭に出現するイエス」の最終回。メッセージの締めくくりです。
1、イエスの招き (37節~44節)
(1)37節・・・『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。』
①仮庵の祭中の生活
仮庵の祭りは毎年秋に行われます。昔イスラエルの民が出エジプトし、荒野の旅をした時に主が守って下さり、無事に約束の地に入れたことを記念してお祝いします。この期間、木の枝で作った小屋で過ごし、荒野の天幕生活を思い出します。
②仮庵の祭りの儀式
仮庵の祭りは7日間行われ、8日目の安息日には聖なる会合を開きました。
祭りの最初の6日間は、行列になってギホンの泉から水を汲み、神殿の祭壇を1度回ってから水を注ぎます。7日目は、同じように行列になってギホンの泉から水を汲みますが、最後、祭壇の周りを7度回ってから水を注ぎます。
③立って、大声で語る
「水を注ぐ」儀式は、水のない荒野で、主が水を与えて下さったことを思い起こすためですが、8日目の聖なる会合を開く日に、イエスは水の話をされました。通常、ユダヤのラビは座って教えるのが慣例ですが、イエスは立って、しかも、大声で語りました。これは驚くべき光景だったに違いありません。
(2)37~38節・・・『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』
①すべての人を招くイエス
「誰でも」という言葉によって、すべての人を招かれました。そこに例外はありません。「わたしのもとに来て飲みなさい。」とは、
「信じなさい」という意味です。信じるなら、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」というのです。
②生ける水
イスラエルでは、通常、「生ける水」とは動いている水を指しますが、物質的な水ではなく、「御霊(聖霊)」を指しました。
③渇き
人は、「霊」「魂」「体」の3つの部分から成り立っています。これは「父」「子」「聖霊」の神が三位一体のように、切っても切り離せません。最初の人アダムは、神によって土地のちりで形造られ、その鼻に息を吹き込まれると生きた存在になりました。人は、「霊」が「魂」を支配し、「魂」が「体」を支配していました。この状態は、「霊」である神が中心なので、「魂」は健全で、肉の欲も健全でした。永遠に生きる存在でしたが、罪を犯した時、「霊」が離れて、「霊」の部分が死に、「魂」と「体」だけになりました。人は死ぬべき存在になりました。イエスが立って大声で叫ばれた「渇き」は、「霊」に対する渇きです。
③心の奥底
「心の奥底」は、かつて「霊」が存在していた場所です。イスラエルには、水なし川が数多くあります。乾季には水のない枯れた川
ですが、雨季になると鉄砲水が流れて来ます。イエスを信じるなら、枯れた心の奥底に「聖霊が鉄砲水のように流れる」というのです。
(3)39節・・・『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』
「栄光を受ける」とは?
十字架、復活、昇天を指します。昇天したイエスが10日後に120人の弟子たちの上に聖霊を注がれました。ペンテコステの日
に「栄光を受ける」預言が成就し、教会が誕生しました。これが、先日教会でお祝いしたペンテコステであり、教会が誕生した日です。
(4)40~43節・・・『このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。』
★イエスの評価に関して分裂が起こった
①「あの預言者」(=モーセのような預言者)・・・『申命記18:15参照』
②キリスト(=メシア)
③ガリラヤ出身なのでキリストではない
キリストはダビデの子孫であり、ベツレヘムで生まれると預言されているので、「キリストはガリラヤで生まれない」というのは正しいが、この人々は、イエスが「ベツレヘム」で誕生したことを知らなかった。
(5)44節・・・『その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。』
イエスが十字架につけられる時は来ていなかった。神の御心を歩むなら、働きが完成するまで神が守って下さる。
2、パリサイ人の反応 (45節~52節)
(1)45~46節・・・『それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連
れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
①手ぶらで帰ってきた役人たち
祭司長とパリサイ人たちは、役人たちに「イエスを逮捕して連れて来るように」と命じていたのに手ぶらで帰って来たため詰問した。
②役人たちはイエスの話に感動した
役人たちは、これまでも高名なラビたちの講話を何度も聞いていたが、イエスの教えはそのどれとも違っていて感動した。
(2)47~49節・・・『すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」』
①無知ゆえ惑わされている
パリサイ人は役人に、「あなたがたは無知ゆえ惑わされている。のろわれている」と言い放ったが、惑わされているのはどちらか?
②イエスを信じる議員や指導者たちはいた
パリサイ人たちは、まさかイエスを信じている議員がいるはずはないと思っていましたが、ユダヤの国会議員(サンヘドリン)の「ニコデモ」や「アリマタヤのヨセフ」はイエスを信じていたし、他にも、『指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。』(ヨハネ12:42)と書かれています。
(3)50節~52節・・・『彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」』
①隠れ信者のニコデモが提言
ニコデモはパリサイ人たちに、「モーセの律法に基づいて、相手の言い分を聞いてから判決を下すべきだ」と提言した。
②「ガリラヤから預言者は起こらない」は間違い
「ホセア」「ヨナ」「エリシャ」などの預言者はガリラヤ出身であった。パリサイ人たちは知ったかぶっているが案外無知であった。
結論
1、招きの対象・・・「誰でも」
(1)すべての人が救いに招かれている。
(2)滅びに定められている人はいない。
(3)しかし、すべての人がイエスのもとに来るわけではない。
2、救いの前提・・・「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」
(1)霊的に渇いている人だけがイエスのもとに来る。
(2)「水を飲む」とは、イエスを信じてイエスで心を満たすことである。
3、信じた者への約束・・・「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(1)霊的渇きとは神に対する渇きであり、神への渇きが完全にいやされる。
(2)霊的に生まれ変わる。
(3)聖霊に満たされ力を受ける
(4)聖霊に導かれるようになる。
4、救われた者に起こること
(1)聖霊が中心部から外側に向かって流れるようになる。
(2)聖霊の流れは人を三重の意味で生かす。①幸せにし、②祝福し、③健康にする。(第三ヨハネ1:2参照)
(3)聖霊の流れは人と環境に影響を与える。
(4)聖霊の流れは、自覚しなくても信じた瞬間から始まっている。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書7章37節~52節」
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
7:40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
7:41 またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
7:42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
7:43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
7:44 その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
7:45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
7:48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
説教題:「仮庵の祭に出現するイエス【3】」
聖書箇所:ヨハネの福音書7章37節~52節
説教者:菅野直基牧師
少し前に、イエスはガリラヤ湖の湖畔で5000人の給食の奇跡を行いました。そのことがきっかけで、群衆の中に「イエスを王にしよう!」という動きが起こりました。イエスは一人山に退きました。弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出しますが、嵐に巻き込まれました。そこに、山に居たはずのイエスがガリラヤ湖にワープするかのようにして現われ、窮地を救われました。舟にイエスが乗った途端、嵐は静まり、まもなくカペナウムに到着しました。翌日、カペナウムの会堂で、イエスは「いのちのパンの説教」を語りました。その説教を聞いた群集のほとんどがイエスから離れ、弟子の多くもイエスから離れて行きました。その後、「仮庵の祭り」の時期になったので、イエスはエルサレムに向かいました。今日は、その「仮庵の祭に出現するイエス」の最終回。メッセージの締めくくりです。
1、イエスの招き (37節~44節)
(1)37節・・・『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。』
①仮庵の祭中の生活
仮庵の祭りは毎年秋に行われます。昔イスラエルの民が出エジプトし、荒野の旅をした時に主が守って下さり、無事に約束の地に入れたことを記念してお祝いします。この期間、木の枝で作った小屋で過ごし、荒野の天幕生活を思い出します。
②仮庵の祭りの儀式
仮庵の祭りは7日間行われ、8日目の安息日には聖なる会合を開きました。
祭りの最初の6日間は、行列になってギホンの泉から水を汲み、神殿の祭壇を1度回ってから水を注ぎます。7日目は、同じように行列になってギホンの泉から水を汲みますが、最後、祭壇の周りを7度回ってから水を注ぎます。
③立って、大声で語る
「水を注ぐ」儀式は、水のない荒野で、主が水を与えて下さったことを思い起こすためですが、8日目の聖なる会合を開く日に、イエスは水の話をされました。通常、ユダヤのラビは座って教えるのが慣例ですが、イエスは立って、しかも、大声で語りました。これは驚くべき光景だったに違いありません。
(2)37~38節・・・『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』
①すべての人を招くイエス
「誰でも」という言葉によって、すべての人を招かれました。そこに例外はありません。「わたしのもとに来て飲みなさい。」とは、
「信じなさい」という意味です。信じるなら、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」というのです。
②生ける水
イスラエルでは、通常、「生ける水」とは動いている水を指しますが、物質的な水ではなく、「御霊(聖霊)」を指しました。
③渇き
人は、「霊」「魂」「体」の3つの部分から成り立っています。これは「父」「子」「聖霊」の神が三位一体のように、切っても切り離せません。最初の人アダムは、神によって土地のちりで形造られ、その鼻に息を吹き込まれると生きた存在になりました。人は、「霊」が「魂」を支配し、「魂」が「体」を支配していました。この状態は、「霊」である神が中心なので、「魂」は健全で、肉の欲も健全でした。永遠に生きる存在でしたが、罪を犯した時、「霊」が離れて、「霊」の部分が死に、「魂」と「体」だけになりました。人は死ぬべき存在になりました。イエスが立って大声で叫ばれた「渇き」は、「霊」に対する渇きです。
③心の奥底
「心の奥底」は、かつて「霊」が存在していた場所です。イスラエルには、水なし川が数多くあります。乾季には水のない枯れた川
ですが、雨季になると鉄砲水が流れて来ます。イエスを信じるなら、枯れた心の奥底に「聖霊が鉄砲水のように流れる」というのです。
(3)39節・・・『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』
「栄光を受ける」とは?
十字架、復活、昇天を指します。昇天したイエスが10日後に120人の弟子たちの上に聖霊を注がれました。ペンテコステの日
に「栄光を受ける」預言が成就し、教会が誕生しました。これが、先日教会でお祝いしたペンテコステであり、教会が誕生した日です。
(4)40~43節・・・『このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。』
★イエスの評価に関して分裂が起こった
①「あの預言者」(=モーセのような預言者)・・・『申命記18:15参照』
②キリスト(=メシア)
③ガリラヤ出身なのでキリストではない
キリストはダビデの子孫であり、ベツレヘムで生まれると預言されているので、「キリストはガリラヤで生まれない」というのは正しいが、この人々は、イエスが「ベツレヘム」で誕生したことを知らなかった。
(5)44節・・・『その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。』
イエスが十字架につけられる時は来ていなかった。神の御心を歩むなら、働きが完成するまで神が守って下さる。
2、パリサイ人の反応 (45節~52節)
(1)45~46節・・・『それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連
れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
①手ぶらで帰ってきた役人たち
祭司長とパリサイ人たちは、役人たちに「イエスを逮捕して連れて来るように」と命じていたのに手ぶらで帰って来たため詰問した。
②役人たちはイエスの話に感動した
役人たちは、これまでも高名なラビたちの講話を何度も聞いていたが、イエスの教えはそのどれとも違っていて感動した。
(2)47~49節・・・『すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」』
①無知ゆえ惑わされている
パリサイ人は役人に、「あなたがたは無知ゆえ惑わされている。のろわれている」と言い放ったが、惑わされているのはどちらか?
②イエスを信じる議員や指導者たちはいた
パリサイ人たちは、まさかイエスを信じている議員がいるはずはないと思っていましたが、ユダヤの国会議員(サンヘドリン)の「ニコデモ」や「アリマタヤのヨセフ」はイエスを信じていたし、他にも、『指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。』(ヨハネ12:42)と書かれています。
(3)50節~52節・・・『彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」』
①隠れ信者のニコデモが提言
ニコデモはパリサイ人たちに、「モーセの律法に基づいて、相手の言い分を聞いてから判決を下すべきだ」と提言した。
②「ガリラヤから預言者は起こらない」は間違い
「ホセア」「ヨナ」「エリシャ」などの預言者はガリラヤ出身であった。パリサイ人たちは知ったかぶっているが案外無知であった。
結論
1、招きの対象・・・「誰でも」
(1)すべての人が救いに招かれている。
(2)滅びに定められている人はいない。
(3)しかし、すべての人がイエスのもとに来るわけではない。
2、救いの前提・・・「渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」
(1)霊的に渇いている人だけがイエスのもとに来る。
(2)「水を飲む」とは、イエスを信じてイエスで心を満たすことである。
3、信じた者への約束・・・「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(1)霊的渇きとは神に対する渇きであり、神への渇きが完全にいやされる。
(2)霊的に生まれ変わる。
(3)聖霊に満たされ力を受ける
(4)聖霊に導かれるようになる。
4、救われた者に起こること
(1)聖霊が中心部から外側に向かって流れるようになる。
(2)聖霊の流れは人を三重の意味で生かす。①幸せにし、②祝福し、③健康にする。(第三ヨハネ1:2参照)
(3)聖霊の流れは人と環境に影響を与える。
(4)聖霊の流れは、自覚しなくても信じた瞬間から始まっている。
★今日の聖書箇所 「ヨハネの福音書7章37節~52節」
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
7:40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
7:41 またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
7:42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」
7:43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。
7:44 その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。
7:45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
7:46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
7:47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
7:48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
7:49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」
7:52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」
7:53 〔そして人々はそれぞれ家に帰った。